ロシア革命の渦中で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:51 UTC 版)
「アルメニアの歴史」の記事における「ロシア革命の渦中で」の解説
大戦中にオスマンのアルメニア人が辛酸を舐めていたころ、カフカース戦線(英語版)のロシア軍は、オスマン軍に対して勝利を重ねていた。1916年にはエルズルム、トラブゾン、エルズィンジャンなどのアルメニア人地域はロシア軍の占領下(西アルメニア行政地域(英語版))に入っていたが、この状況でロシアに発生したのが、1917年3月の二月革命であった。 この革命によって、ロシアの帝政が臨時政府による統治へ交代すると、南カフカースにおける政治権力も現地の3民族(グルジア人、アゼルバイジャン人、そしてアルメニア人)の手に移った。このとき、3民族の間での支持政党はグルジア人がメンシェヴィキ、アゼルバイジャン人が汎テュルク主義的なミュサヴァト党、そしてアルメニア人がダシュナク党とそれぞれ分かれていたが、この段階ではいずれの民族もロシアからの独立を志向してはいなかった。 ロシア軍の西進によって西アルメニアもロシアの支配下に入ったことを受け、ダシュナク党は東西アルメニアの統一による「大アルメニア(英語版)」の実現を訴え、対オスマン戦争継続を強く主張した。また南カフカース全体でも戦争継続を求めるメンシェヴィキや社会革命党が優勢で、講和を主張するボリシェヴィキの勢力はごく少数に留まっていた。 しかし、頼みのロシア軍には政情不安や経済危機から厭戦気分が広がり、ムシュとビトリスはすかさず、ムスタファ・ケマル率いるオスマン軍第2軍(英語版)に奪回された。同年11月にはボリシェヴィキによる十月革命がまたもペトログラードで発生し、臨時政府の後ろ盾を失った3民族は、自力でオスマン軍の侵攻に対処せざるを得なくなった。さらに1918年3月には、ボリシェヴィキによるロシア・ソビエト共和国が中央同盟国と結んだブレスト=リトフスク条約によって、ロシアが大戦で獲得した領域すべてをオスマンに返還することが定められてしまった。 最初にアゼルバイジャン人が対オスマン講和を主張し、バトゥムの喪失に消沈したグルジア人もこれに同意した。アルメニア人のみがカルスを最終防衛線として戦争継続を訴えたが、結局は同年4月、3民族は対オスマン講和のため、ザカフカース民主連邦共和国としてロシアから独立した国家となった。しかしオスマン軍は和平交渉の最中にも進撃を続け、アレクサンドロポリを落としてチフリスとエレヴァンの間近にまで迫った。もはやザカフカース連邦の維持は不可能とみたグルジア人は、オスマンの伸長を警戒するドイツ帝国から支援を受け、5月26日にグルジア民主共和国の独立を宣言して連邦から脱退した。翌27日にはアゼルバイジャン人が、オスマン占領軍の影響下でアゼルバイジャン民主共和国の独立を宣言した。
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