ロサンゼルス・トリビューン
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「ヒサエ・ヤマモト」の記事における「ロサンゼルス・トリビューン」の解説
1945年、収容所から戻ったヤマモトは、アフリカ系アメリカ人週刊紙『ロサンゼルス・トリビューン(英語版)』に採用され、ここで3年間、記者として働くことになった。ロサンゼルスは、日系人の立ち退きの後、南部から来たアフリカ系アメリカ人が住むようになり、ヤマモトは、『ロサンゼルス・トリビューン』が日系人を採用したのは、収容所から戻ってきた日系人とアフリカ系アメリカ人の「共存に配慮したのだろう」と語っている。 『ロサンゼルス・トリビューン』での経験をもとに描いた短篇が「フォンタナの火事」である。語り手の記者は、ある人種偏見の憎しみによる犯罪を契機に、人種差別問題をめぐる社会的・個人的な責任のあり方に苦悩して新聞社を辞めることになるが、人種差別を社会問題としてのみならず内省的に考察し、人種差別を受ける黒人の側に立って怒りを覚えると同時に、「人種差別という不正に対して何もできない自己に対する激しい焦燥感」を表現している点が、他の作品にも通じるヤマモトの特徴である。 この間、1948年に投稿した短篇「ハイヒール ― 回想」が初めて共産党系の文芸雑誌『パーティザン・レビュー(英語版)』に掲載され、翌年にはさらに「十七文字」が掲載された。ヤマモトの代表作が書かれたのはこの頃で、翌1950年には「ミス・ササガワラ伝説」、「ウィルシャー通りのバス」、1951年には「茶色の家」、「ヨネコの地震」が発表され、「ヨネコの地震」は1952年度のアメリカ短篇ベストに選ばれた。これらの作品は現在でもアンソロジーや教科書に再録されている。
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