ルドンの前半生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 10:18 UTC 版)
「キュクロープス (ルドン)」の記事における「ルドンの前半生」の解説
ルドンは1840年4月20日、ボルドーに生まれ、努力して美術界入りした。彼は美術学校の入学試験に一度で合格することができず、その挫折ののちにさえ、彼の美術作品は最初、象徴主義の人々にのみ知られ評価されただけだった。 ルドンは、モネやルノワールのような美術家と同年輩であったが、印象主義と呼ばれた彼らのスタイルは追及しなかった。 ルドンの美術は、生前は広くは認められなかった。彼は、多くの有名な同時代人に比べると、よそ者扱いされていた。サロンは彼の作品を認めなかったし、彼は1881年のラ・ヴィ・モデルヌ(La vie moderne)と1882年のル・ゴロワ(Le Gaulois)を除けば、彼の作品が展示されることは滅多になかった。 想像力の深みから描くことをルドンは説明している。 「父はよくわたしに言ったものである:『あの雲を見なさい、父さんとおなじように見えるかい、あの変わりつつある形が?』と。それから父は変わりつつある空に、見たこともないような生き物や、素晴らしく驚くような情景を示してくれたものである。」 ルドンが創造したものの多くは、彼の心の目から生じたものだった。しばしば彼は、心の眼からイメージを呼び出して時間を過ごしたものであった。 彼独自の言葉で彼はそのスタイルを説明している。 「わたしの独創性は、ありそうもない生き物を、人間的なやりかたで生き返らせ、現実世界の論理を - できるかぎり - 幻想世界にあてはめることによって、自然法則と蓋然性にしたがって彼らを生きさせることにある。」 この神話上の主題は、ヒエロニムス・ボスおよび作家エドガー・アラン・ポーと似て、当時においては清新なものであり、アンドリエス・ボンガー(Andries Bonger)の眼を引いた。ボンガーは、ルドンの作品の最初の収集者になり、やがて二人は親友になった。ルドンが美術界で高い評価を得ることになるのは、この関係を通じてであろう。
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