リーゼル・アインシュタイン(アルベルトの長女)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 21:35 UTC 版)
「アインシュタイン家」の記事における「リーゼル・アインシュタイン(アルベルトの長女)」の解説
リーゼル・アインシュタイン(Lieserl Einstein、1902年1月27日 - 1903年9月)は、アルベルト・アインシュタインと最初の妻ミレヴァ・マリッチとの間の第1子である。 リーゼルの存在は、1986年にハンス・アルベルト・アインシュタインの娘イブリンによってアルベルトとミレヴァの間の手紙が発見されるまで、伝記作家には知られていなかった。両親の手紙によると、リーゼルは両親が結婚する1年前の1902年1月27日、現在のセルビアのヴォイヴォディナのノヴィ・サドで生まれた。父アルベルトがスイスで働いている間、母ミレヴァが短期間世話をしていたが、ミレヴァがアルベルトのもとに戻ったときには、リーゼルは連れていなかった。 ミレヴァは女の子を望んでいたが、アルベルトは男の子を望んでいたようである。2人は手紙の中でお腹の中の子供のことを、男の子なら「ハンセル」(Hanserl)、女の子なら「リーゼル」(Lieserl)と呼んでいた。これらは、ドイツ語におけるハンス(Hans)とリーゼ(Liese)(エリザベートの省略形)の指小辞である。 ミレヴァの妊娠への最初の言及は、アルベルトがヴィンタートゥールから彼女に宛てた1901年5月28日ごろの手紙(手紙36)にある。この中でアルベルトは子供のことについて2度尋ねているが、「その少年」「私達の小さい息子」と表現されていた。ミレヴァによる最初の言及は、シュタイン・アム・ライン(英語版)からの1901年11月13日の手紙(手紙43)で、彼女は胎児を「リーゼル」と呼んだ。アルベルトはミレヴァが女の子を望んでいることを知って、自身も「リーゼル」と呼ぶようになったが、1901年12月12日の手紙45では「私達のリーゼルで満足してください。でも私は密かに(ドリーは気づいていないでしょうが)ハンセルを想像することを好みます」とユーモアを込めて書いている。 リーゼルが生まれた直後と思われる1902年2月4日、アルベルトは「…それが、あなたが望むように、本当にリーゼルであることがわかりました。彼女は健康で、きちんと泣いていますか?(中略)私は彼女をとても愛していますが、まだ彼女を知りません!」という手紙を書いている。 現存する手紙の中での「リーゼル」に関する最後の言及は、1903年9月19日のアインシュタインの手紙(手紙54)で、彼女が猩紅熱を患っていることを懸念したものである。アルベルトは子供の出生登録をしているかどうか尋ね、「後で問題が起こらないように注意しなければならない」と付け加えており、「リーゼル」を自身の子供として養育することをあきらめる意図があったものと見られる。 「リーゼル」は仮の名前であり、この子供の本当の名前もその後のことも判明していない。「リーゼル」のその後については、いくつかの仮説が提唱されている。 ミケーレ・ザックハイムは、アインシュタインの娘「リーゼル」に関する本の中で、「リーゼル」には発達障害があり、母ミレヴァの実家で生活し、1903年9月ごろに猩紅熱で亡くなったと述べている。 アインシュタイン・ペーパー・プロジェクト(英語版)のロバート・シュルマンは、「リーゼル」はミレヴァの親友のヘレネ・サビッチ(Helene Savić)の養子となり、1990年代までゾルカ・サビッチ(Zorka Savić)という名前で暮らしていたという仮説を支持している。ヘレネ・サビッチは実際にゾルカという名前の子供を育てており、その子供は幼い頃から盲目で、1990年代に亡くなった。ヘレネ・サビッチの孫のミラン・N・ポポビッチ(英語版)は、2012年に亡くなる前に、アルベルトとミレヴァの関係を徹底的に調査した結果、ゾルカ・サビッチが「リーゼル」である可能性を否定し、「リーゼル」は1903年9月に亡くなったという仮説を支持した。 「アルベルト・アインシュタインから娘への手紙」とされる「愛の普遍的な力」について述べた手紙がインターネット上で広く流通しているが、これはデマである。
※この「リーゼル・アインシュタイン(アルベルトの長女)」の解説は、「アインシュタイン家」の解説の一部です。
「リーゼル・アインシュタイン(アルベルトの長女)」を含む「アインシュタイン家」の記事については、「アインシュタイン家」の概要を参照ください。
- リーゼル・アインシュタインのページへのリンク