ランフォードの実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 07:35 UTC 版)
ベンジャミン・トンプソン(ランフォード)は、1778年から始めていた火薬の研究中に、大砲の中に弾丸を入れずに火薬を発射させると、弾丸を入れた時よりも砲身が熱くなることに気付いた。ランフォードはここから、弾丸を入れないときには、本来弾丸を発射させるのに使われる火薬の作用が、砲身の金属粒子を動かすのに使われたため、その結果余分に熱が発生していると推測し、熱の運動説へと傾いていった。 ランフォードが本格的にカロリック説を否定するようになったのは、大砲の砲身を削る工程で大量の熱が発生しているのを見たことがきっかけだった。1796年および1797年、同じ工程を水中で行ったところ、水が沸騰するほどの熱が発生した。また、この工程で生じた金属の削りかすの比熱を測定したところ、それは実験前の値と変わりなかった。この結果からランフォードは、熱の本質がカロリックならば、熱が生み出された分だけ削られた金属のカロリックが少なくなっているはずなので、比熱は変化していなければならないはずだと論じた。さらに、この実験で生み出される熱は無尽蔵といえるほどの量なので、これが熱的に外部と遮断された実験装置の中から現れ出たとは考えられないと結論づけ、熱の物質説に疑問を呈し、熱が運動以外のものとすると、そのものに明確な観念をもつことは著しく困難であるとした。 ハンフリー・デービーはこのランフォードの意見に賛同し、自らも1799年、2個の氷を摩擦すると熱が発生して溶解するという実験を行った。 ランフォードは1804年に書かれた手紙で、「私はカロリック説とフロギストン説とが同じ墓場に埋葬されるのを見る満足をえるまで生きられると信ずる」と記した。しかし実際にはランフォードの支持者はデービーの他にはトマス・ヤングら少数にとどまり、カロリック説はランフォードの死(1814年)以後も生き延びた。この当時、断熱圧縮の際に熱が発生することはすでに知られていて、研究も進められていたため、カロリック説の支持者はランフォードの実験についても、この研究を当てはめる形で説明しようとした。例えばドルトンは、熱が発生したのは砲身を削り取る作業で金属が圧縮され熱容量が下がったためだと反論した。ラプラス流の論者も、金属内に潜熱として隠れていたカロリックが現れたために熱が発生したと主張した。
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