ラスール朝以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/20 06:58 UTC 版)
ザビードは、13世紀から16世紀にかけてこの地を支配したラスール朝とターヒル朝の2つの王朝のもと最盛期を迎えることになる。アイユーブ朝期までのザビードに建てられていた宗教・学術施設の数は少なかったが、ラスール朝の統治下で町の様子は大きく変わる。ラスール朝はモスクやマドラサといった宗教施設を次々と建設し、市場などの都市整備も積極的に進めた。ラスール朝時代には新たな施設の建築だけでなく、荒廃した過去の政権の施設の修復事業も行われた、。ラスール朝がこのような政策を行った理由については、宗教的な政策によって支配の正当性を高めようとしたという説や、スンナ派の王朝として、イエメン北部を支配していたザイド派政権への対抗上行ったとする説などがある。 この結果、14世紀後半にはザビードは4つの門を持つ全長約9kmの城壁で囲まれ、200以上のモスクやマドラサが林立する教育・宗教の一大都市となっていた。各地から人が集まり、その中には『三大陸周遊記』で知られるイブン・バットゥータのような人物もいた。14世紀にこの地を訪れたバットゥータは、町の環境と住民の性質を称賛した。『三大陸周遊記』では、果樹園、ナツメヤシの林、豊かな水が存在する町として述べられている。また、この地でシャーフィイー学派のイスラーム法学が盛んであったことは、人的交流のあった東南アジアでシャーフィイー学派が広まる一因にもなった。アシュラフ・イスマーイール在位中に行われた調査によると、当時のザビードの宗教・学術施設の数は240に達していた。 ラスール朝の後に成立したターヒル朝もラスール朝と同様にザビードの整備に力を入れ、国費による宗教施設の修繕や給水などの都市設備の整備を行っていた。ターヒル朝の君主はイエメンにもたらされていない著名な書物を買い付け、ザビードで筆写を行わせていた。しかし、16世紀前半に対ポルトガルの拠点を求めるマムルーク朝がイエメンに侵攻し、1516年にザビードはマムルーク朝の軍による破壊、略奪によって大きな被害を受けた。翌1517年にはターヒル朝自体が滅亡し、権力の庇護を失ったザビードは徐々に衰退していくことになる。 オスマン帝国の支配下に入った後、イエメンを代表する都市の地位はサナアに移り、ザビードは忘れ去られていった。
※この「ラスール朝以降」の解説は、「ザビード」の解説の一部です。
「ラスール朝以降」を含む「ザビード」の記事については、「ザビード」の概要を参照ください。
- ラスール朝以降のページへのリンク