ラオコオン論争
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ラオコオン論争は、視覚芸術をめぐって18世紀のドイツを中心としたヨーロッパで行われた議論である。論争の発端となった者はドイツの詩人・思想家のゴットホールト・エフライム・レッシングで、その論争は、絵画や彫刻など視覚的な芸術を「空間芸術」と定義し、文学や舞台など視覚以外の要素が混然とした芸術(時間芸術)から区別することにつながった[1][2]。
- ^ コトバンク・ラオコーン(レッシングの美学論文
- ^ コトバンク・ラオコオン(世界大百科事典 第2版の解説)
- ^ 若林, 1968, p 3.
- ^ a b 若林, 1968, p 5.
- 1 ラオコオン論争とは
- 2 ラオコオン論争の概要
- 3 参考資料
ラオコーン論争
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プリニウスは『ラオコーン像』のことを「あらゆる絵画・彫刻作品のなかでもっとも好まれている」とし、すべての芸術作品の中では彫刻がもっとも優れているという、伝統的な考えをもたらしてきた。18世紀のドイツ人美術史家ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンは、本来厭わしいはずの衰弱と死の瞬間を捉えたこの彫刻が賞賛されている矛盾を文章にした。これに対して論争が起こったが、もっとも影響が大きかったのはゴットホルト・エフライム・レッシングの『Laocoon: An Essay on the Limits of Painting and Poetr』であり、この彫刻とウェルギリウスの詩文とを比較することによって視覚芸術、言語芸術との違いを検証した。レッシングは、この彫刻を作成した芸術家たちはラオコーンの現実的な肉体的苦痛を表現しきれてはいない、死に至るような苦痛はもっと激しいものであり、目に見えるものとして表現できるものではないとした。そして、芸術家たちは美としての苦痛を表現しているのだと主張した。 この論争でもっとも異質な介入をしたのは、イギリスの版画家・詩人ウィリアム・ブレイクの版画である。落書きのように様々な方向で書かれた数ヶ国語の文章が、『ラオコーン像』のまわりを取り囲んだ版画である。ブレイクは『ラオコーン像』をイスラエル王国のオリジナルをコピーした出来の悪い彫刻だとし、「3人のロドス人がソロモン神殿のヤハウェとその二人の息子であるサタンとアダムの彫刻をコピーした」などと書いている。ブレイクの意見では、古代ギリシア・ローマ時代の模倣は創造活動には害悪でしかなく、ユダヤ教とキリスト教の精神を背景にした芸術との比較において古代彫刻は陳腐な写実主義に過ぎないとした。
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