モンタナ州での家庭生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 14:12 UTC 版)
「ルイ・リエル」の記事における「モンタナ州での家庭生活」の解説
1878年の秋、リエルはセント・ポールに帰還を果し、暫くのあいだ友人や家族の元を訪れた。この頃、レッドリヴァーにおけるメティ社会に急激な変化が起きていた。メティたちが生活の糧としていたバイソンの数がだんだん減少する一方で、移住者の流入量は格段に増加し、メティの多くは土地を無節操な当地投機家に売り払ってしまっていた。マニトバ州を去ったレッドリヴァーのメティ多数と同様に、リエルもまた新生活を求めてさらに西を目指した。モンタナ準州への道すがら、リエルはベントン砦を囲む一帯で商人及び通訳として働いた。ここでアルコール中毒の蔓延とそのアメリカ先住民やメティにとっての有害な影響を目の当たりにし、リエルはウイスキーの取引を縮減するための運動を行うが、これは不首尾に終わった。 1881年、リエルはメティのマルグリット・モネ・ベリュメール(1861年 - 1886年)と4月28日に田舎風の結婚をし、翌1882年3月9日に結婚式を挙げた。夫婦は3人の子供を儲けた。順に、ジャン=ルイ(1882年 - 1908年)、マリー=アンジェリーク(1883年 - 1897年)ともう一人の男児(リエルが絞首刑となるわずか1ヶ月前の1885年10月21日に死亡)であった。その後モンタナ州の政治にかかわりを持つようになり、1882年には米国共和党のために活発な運動を展開した。民主党に対し選挙における投票の不正操作の疑いで訴訟を起こすところまで行き着いたが、自身もまた選挙資格を得るために英国籍を不正に利用したのではないかと告発を受けた。これに応えてリエルは米国市民権の取得申請を行い1883年3月16日に帰化を果した。2人の幼子を連れて1884年にモンタナに腰を据え、サンリヴァー地域のセントピーター・イエズス布教所の学校で教育活動を行った。
※この「モンタナ州での家庭生活」の解説は、「ルイ・リエル」の解説の一部です。
「モンタナ州での家庭生活」を含む「ルイ・リエル」の記事については、「ルイ・リエル」の概要を参照ください。
- モンタナ州での家庭生活のページへのリンク