マーキュリー・ミティア (1961年)
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「エドセル」の記事における「マーキュリー・ミティア (1961年)」の解説
1961年、エドセルの部門閉鎖を終えたフォード・モーターは販売が低落気味であったマーキュリーにも予算削減の手を伸ばした。高級価格帯のモントクレアとパークレーンを廃止し、全てのマーキュリー車のホイールベースを120インチに統一した。その際に最上位モデルに昇格したモンテレーと、最低価格帯に設定された(無印の)コメットの間を埋める、「実質的な1961年式エドセル」の地位を担う車種として投入されたのが、1961年式フェアレーンをベースにした廉価版フルサイズ車のマーキュリー・ミティア(英語版)である。ミティアにはミティア800とミティア600というトリムレベルが異なる二種類のモデルが設定され、800は1956年式フォードにおけるマーキュリー・メダリスト、600はマーキュリー・カスタム(ドイツ語版)に相当する地位であった。外見上は600が長方形のテールランプ、800が丸目三連のテールランプを特色とした。 1961年式ミティアはエドセルの本来のコンセプトを体現したモデルとなり、600、800各型合計で5万3千台余りを売り上げた。この成功に手応えを得たマーキュリーは、翌1962年には同年式フェアレーンの中級車(英語版)への移行に同調して、ミティアも中級車相当の大きさに縮小した第二世代へ移行した。しかし、1962年式及び1963年式ミティアは堅調な販売を記録したものの、下位のコメットや上位のモンテレーの販売台数を下回り、中級車市場全体では不人気な車種となってしまい、結局1963年を最後にミティアの販売は終了した。1961年式ミティアの開発にはコメット同様にエドセル計画を立案したアーネスト・ブリーチが深く関わっており、商品コンセプトの共通性からエドセルと関連性が深い車種として言及される事があり、エドセルの商品上の系譜はこの61年式ミティアの廃止をもって完全に終わったと言われる事もある。 一般的に、この時期のマーキュリー部門はエドセル部門同様にマクナマラによる予算削減と、車体の小型化要求の影響を受け、ブランドとしての力が低下し続けていた時期であった。マーキュリーが本来のリンカーンの直下のモデルとしての地位を回復するのは、(マクナマラの遺産でもある)コンパクトカーとしてのコメットが廃止され、ミティアと同じフルサイズのエントリーモデルに昇格する1966年の事である。
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