マーキュリアス・アメリカヌス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 16:08 UTC 版)
「ジョン・ウィールライト」の記事における「マーキュリアス・アメリカヌス」の解説
この交渉が起こっている間に、別の問題が起こっていた。1644年初期、『ニューイングランドの教会に影響した無律法主義者、家族主義者、放蕩者の興隆、支配と衰退の短い話』と題した出版物がロンドンで発行された。この作品の著者は分からなかったが、トマス・ウェルド神父が紹介と序文を書いていた。学者達は長年にわたって異口同音にその作者をジョン・ウィンスロップだとしてきた。ジョン・コットンも1648年に出版した本で同様なことを言っていた。この作品は事件のバランスの取れた証言であるはずもなく、ウィールライトの伝記作者チャールズ・ベルは「それは当時であっても、大変辛辣で偏った作品として特徴づけられる」と記していた。 ウィールライトは、その追放令廃止の文書をその不当な前提とともに受け取ったちょうどその頃に、この出版物に関する情報を得た。この作品の意味するところに深く傷つけられた。マサチューセッツ湾植民地の影響力ある判事や牧師数人の助けや奨励を得て、重大な侵略を議論の連鎖に置き換えようとしているまさにそのときに、それが出てきた。イングランドの友人や親戚が、自分に反対していた人々の不公平な証言から、ニューイングランドの当時の状況を理解して欲しくないと思った。ウィールライトは自己弁護するために『短い話』に反論するものを出版することに友人の支援を得た。1645年、『マーキュリアス・アメリカヌス』が、ジョン・ウィールライト・ジュニアの名の下にロンドンで出版された。ジュニアはウィールライトの息子であり、当時ケンブリッジ大学ジーザス・カレッジに入学してロンドンにいた。チャールズ・ベルはこの作品について「その調子や気質において、『短い話』よりも明白に優れており、その著者の教義的見解の正当性に特に奉げられている一方で、当時流行している論争の学派に快く、中傷者に対する重大な反論を含み、論理的鋭さに鍛えられた心を示し、時代に学んだことが植え付けられている。」と述べている。
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