マリア信仰と政治的な再興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/08 06:54 UTC 版)
「ロリアン襲撃」の記事における「マリア信仰と政治的な再興」の解説
1746年11月15日、ロリアン当局は会議を行い、聖母マリアの介入により勝利したと結論付けた。そのため、毎年10月7日にロリアンのサン=ルイ教会(フランス語版)で記念ミサを行い、続いて町中を行列で行進することが決定された。ヴァンヌ司教(英語版)は1747年2月23日にそれを許可した。このため、聖母マリアをジャンヌ・ダルクのような戦士として示す像が立てられた。この像はマリアがロリアンの塁壁(フランス語版)の上に座り、手に持っている王笏でイギリスの国章にあるライオンを撃つ、という形になっている。像はフランス革命の最中に溶かれたが、19世紀には元の像よりも大きいレプリカが作られた。 19世紀末から20世紀初の間、マリア信仰はロリアンの政治にも影響した。ロリアン市長アドルフ・レルゴウアルク(Adolphe L'Helgouarc'h)が行進を禁止しようとし、教会がそれに反対したとき、民衆の間では教会に同意する声が強かった。行進の禁止の是非をめぐって国と教会の間で政争になり、行進自体が国への対抗の象徴となった。現地メディアでも行進をプロテスタントのイギリスへの反対の象徴とした。また、10月7日は1571年にカトリック艦隊とオスマン艦隊の間のレパントの海戦がおこった日付でもあったため、カトリックの野党にたびたび取り上げられた。例えば、1898年にはラ・クロワ・ドゥ・モルビアン(La Croix du Morbihan、「モルビアンの十字」)がレルゴウアルクの政府を「イギリス地方政府」と形容した。同1898年のファショダ危機や第二次世界大戦でのイギリスによるメルセルケビール襲撃とロリアン砲撃でも同じ非難があった。
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