マセラティ兄弟の創業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 09:37 UTC 版)
「:en:Maserati Brothers」も参照 イタリア北部ピアチェンツァ出身の鉄道機関士ロドルフォ・マセラティには、長男カルロ(Carlo, 1881年生)、次男ビンド(Bindo, 1883年生)、四男アルフィエーリ(Alfieri, 1887年生)、五男マリオ(Mario, 1890年生)、六男エットーレ(Ettore, 1894年生)、七男エルネスト(Ernesto, 1898年生)という6人の息子がいた(三男は生後間もなく死亡)。カルロはイソッタ・フラスキーニ (Isotta Fraschini) やビアンキでエンジニア兼レーサーとして活躍し、ビンドとアルフィエーリとエットーレもイソッタ・フラスキーニで働いた。 カルロが病死した後、兄譲りの才能を持つアルフィエーリを中心にして、エットーレとエルネストの3人で独立し、1914年12月1日に故郷ピアチェンツァに近いボローニャで自動車工房ソシエータ・アノニーマ・オフィチーネ・アルフィエーリ・マセラティを開業する。初期は市販車のレーシングチューンを主業とし、第一次世界大戦中は雲母を絶縁体とするスパークプラグを開発し、軍需産業向けに業績を伸ばした。 終戦後はディアット (Diatto) と提携し、グランプリマシンの製作を依頼される。ディアットが資金難に陥ると計画を譲り受け、マセラティの名を冠したオリジナルレーシングカー「ティーポ26」を完成させ、1926年のタルガ・フローリオでアルフィエーリがドライブし、デビュー戦でクラス優勝を果たす。このマシンのグリルには、芸術家になったマリオがデザインした三叉の銛(トライデント)のバッジが付けられた。 以後、レーシングカーを製造販売するコンストラクターとして名を広め、ライバルメーカーのアルファロメオと国内外のレースで競い合う。世界恐慌の荒波の中、1932年に大黒柱のアルフィエーリが44歳で他界すると、エルネストが会社を引き継ぎ、ビンドも経営に加わった。ナショナリズム発揚の場となったグランプリレースにおいて、国有化されたアルファロメオや、ナチスドイツの威信を背負うメルセデスやアウトウニオンを相手にして、家族経営のマセラティは限られた戦力で健闘した。
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