ポルテッラ・デッラ・ジネストラの虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/11 00:39 UTC 版)
「マリオ・シェルバ」の記事における「ポルテッラ・デッラ・ジネストラの虐殺」の解説
内相に就任してちょうど3か月が経過したその日、シェルバはポルテッラ・デッラ・ジネストラの虐殺事件に対応することとなった。1947年のシチリアにおける地方選挙で左派が勝利した12日後の5月1日、ポルテッラ・デッラ・ジネストラでのメーデーの労働者の行進が攻撃され、11人が死亡、30人以上が負傷するに至った。この攻撃の首謀者は、山賊でシチリアの分離独立を訴えていたサルヴァトーレ・ジュリアーノであり、ジュリアーノは先の選挙の結果を受けて左翼勢力をねじ伏せることをもくろんでいたのである。 シェルバはその翌日に議会に対して、警察が捜査した限りではこの銃撃事件が政治的なものではないという見解を示している。また事件が起こった渓谷は山賊がはびこっていると主張した。ところがこのシェルバの見解に対して左派から反論が出された。共産党の代議院議員ジローラモ・リ・カウシはこの虐殺事件の政治的要素を強く指摘し、マフィアが大地主、王政派、右翼団体 Uomo Qualunque Front と共謀して事件を実行したと主張した。またリ・カウシは、起訴の手続きを進めることになっていた警察の捜査官エットーレ・メッサーナがジュリアーノと手を組んでいたと主張し、メッサーナを捜査官にとどめていることについてシェルバを非難した。なお後の文書においてリ・カウシの告発が正しいと言うことが証明されている。リ・カウシとシェルバは事件後においても対立が続いている。たとえば虐殺事件の首謀者であるサルヴァトーレ・ジュリアーノの暗殺事件や、ジュリアーノの右腕だったガスパレ・ピショッタとジュリアーノ一味に対する裁判でも両者のあいだでの争いが続いた。 これらの事件の審理は1950年の夏にヴィテルボで開始された。審理中、シェルバは虐殺事件について計画の段階で関与していると再び責められたが、この非難には矛盾やあいまいな点が見受けられた。結局虐殺を政府などが指示したという判断はなされず、ジュリアーノ一味による独断の犯行であるとされた。裁判でピショッタは「シェルバは再三にわたって自らが約束したことに背いている。マタレッラとクスマーノはわれわれに対する恩赦を求めるためにローマに戻ったが、シェルバはその約束を否定した」と証言した。ピショッタはまた、眠っているジュリアーノを殺したのはシェルバとの話し合いのうえでのことだったと主張した。しかしシェルバとピショッタにはなんらかの関係があったという証拠は出されなかった。
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