ホティンの戦い
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「ペトロー・コナシェーヴィチ・サハイダーチュヌィイ」の記事における「ホティンの戦い」の解説
ポーランド・リトアニア共和国の政府はサハイダーチュヌィイが正教会を支援していることに対し不満であったが、オスマン帝国との戦争中であったため、サハイダーチュヌィイを制する余裕がなかった。さらに、1620年10月7日にツェツォラの戦いにおいてポーランド・リトアニア軍が大敗したので、政府はサハイダーチュヌィイにコサックによる援軍派遣を申し入れた。サハイダーチュヌィイはワルシャワに出向き、登録コサックの増加、コサックの自治権の拡大、ならびにウクライナ正教会の公認といった条件の下で王や政府との交渉を行い、政府側の合意を得てコサックの援軍を約束した。 1621年の春に、サハイダーチュヌィイが率いる登録コサック軍とザポロージャの非登録コサック軍がウクライナのホヒリウ町の辺りで合流した。サハイダーチュヌィイは4万人からなるコサックの全軍の大長官に選ばれ、ヴワディスワフ王子を助けるべく、ポーランドとオスマン帝国の属国モルドヴァ公国の境にあるホティン城へ向かった。同年8月にホティン城に到着したコサック軍は、2万人のリトアニア勢と、王子が率いる1万人のポーランド勢に合流し、20万人のオスマン帝国とその属国(クリミア汗国、モルドヴァ公国、ワラキア公国)からなるイスラム勢の大軍と対峙した。 同年9月2日にオスマン帝国の軍勢は、ホティン城を中心とするポーランド・リトアニア共和国軍の陣地に攻め入った。しかし、城の廻りは荷車と土塁で作られたコサックの防衛線が設置され、イスラム勢は数日をかけてもその防衛線を突破することができなかった。2日から28日までの間、オスマン帝国軍は6回にわたる総攻撃を行ったが、コサックの大砲や鉄砲の前ではなす術もなく、すべての総攻撃は大敗に終わった。長引く苦しい戦いで力尽きたオスマン帝国のオスマン2世は、9月29日にポーランド・リトアニア共和国の王子へ和平交渉を願い出て、10月8日に王子とホティン和約を結んだ。ホティンの戦いとこの条約により、オスマン帝国の中・東欧制覇の夢が砕かれ、ポーランド・リトアニア共和国はサハイダーチュヌィイのコサックのおかげで独立を守り抜いた。 ホティンの戦いでポーランド・リトアニア共和国側は勝利したにも関わらず、コサックは大きな被害を受けた。コサックの大長官サハイダーチュヌィイは敵の毒矢に当たり、致命的な傷を受けた。彼はキエフに運ばれ、1622年3月20日にキエフで死去した。サハイダーチュヌィイの遺体はキエフ兄弟団の公現祭教会で葬られ、彼の財宝は遺言通りキエフ兄弟団学校とリヴィウ兄弟団学校に譲られた。
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ホティンの戦い
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「ペトロー・コナシェーヴィチ・サハイダーチヌイ」の記事における「ホティンの戦い」の解説
詳細は「ホティンの戦い (1621年)」を参照 ポーランド・リトアニア共和国の政府はサハイダーチヌイが正教会を支援していることに対し不満であったが、オスマン帝国との戦争中であったため、サハイダーチヌイを制する余裕がなかった。さらに、1620年10月7日にツェツォラの戦いにおいてポーランド・リトアニア軍が大敗したので、政府はサハイダーチヌイにコサックによる援軍派遣を申し入れた。サハイダーチヌイはワルシャワに出向き、登録コサックの増加、コサックの自治権の拡大、ならびにウクライナ正教会の公認といった条件の下で王や政府との交渉を行い、政府側の合意を得てコサックの援軍を約束した。 1621年の春に、サハイダーチヌイが率いる登録コサック軍とザポロージャの非登録コサック軍がウクライナのホヒリウ町の辺りで合流した。サハイダーチヌイは4万人からなるコサックの全軍の大長官に選ばれ、ヴワディスワフ王子を助けるべく、ポーランドとオスマン帝国の属国モルドヴァ公国の境にあるホティン城へ向かった。同年8月にホティン城に到着したコサック軍は、2万人のリトアニア勢と、王子が率いる1万人のポーランド勢に合流し、20万人のオスマン帝国とその属国(クリミア汗国、モルドヴァ公国、ワラキア公国)からなるイスラム勢の大軍と対峙した。 同年9月2日にオスマン帝国の軍勢は、ホティン城を中心とするポーランド・リトアニア共和国軍の陣地に攻め入った。しかし、城の廻りは荷車と土塁で作られたコサックの防衛線が設置され、イスラム勢は数日をかけてもその防衛線を突破することができなかった。2日から28日までの間、オスマン帝国軍は6回にわたる総攻撃を行ったが、コサックの大砲や鉄砲の前ではなす術もなく、すべての総攻撃は大敗に終わった。長引く苦しい戦いで力尽きたオスマン帝国のオスマン2世は、9月29日にポーランド・リトアニア共和国の王子へ和平交渉を願い出て、10月8日に王子とホティン和約を結んだ。ホティンの戦いとこの条約により、オスマン帝国の中・東欧制覇の夢が砕かれ、ポーランド・リトアニア共和国はサハイダーチヌイのコサックのおかげで独立を守り抜いた。 ホティンの戦いでポーランド・リトアニア共和国側は勝利したにも関わらず、コサックは大きな被害を受けた。コサックの大長官サハイダーチヌイは敵の毒矢に当たり、致命的な傷を受けた。彼はキエフに運ばれ、1622年3月20日にキエフで死去した。サハイダーチヌイの遺体はキエフ兄弟団の公現祭教会で葬られ、彼の財宝は遺言通りキエフ兄弟団学校とリヴィウ兄弟団学校に譲られた。
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