ベートマン=ホルヴェークの不信任案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 04:19 UTC 版)
「ツァーベルン事件」の記事における「ベートマン=ホルヴェークの不信任案」の解説
ツァーベルンでの出来事はまた、帝国議会で激しい議論を引き起こした。中央党、社会民主党、進歩人民党の三党は宰相に対して議会の調査を指示した。12月3日、中央党のカール・ハウス、進歩人民党のローザー、社会民主党のジャック・ペイロートの三人の議員はそれぞれの党を代表して、ツァーベルン事件に対する批判的な見解を開陳して議論の火蓋を切った。ベートマン=ホルヴェークは軍の行為を取り繕って演説を締めくくったが、一部始終を見ていた人には彼がナーバスに震えていたのが明らかに見て取れた。宰相の後にファルケンハインが初めて帝国議会で演説した。将校たちはただ自分の仕事を全うだけだと弁護し、報道機関は軍に影響を及ぼそうと扇動的なやり方で事件を強調していると鋭く批判した。 ここにおいて、議会と宰相の見解の相違が明確になった。議論は翌日も続いた。ベートマン=ホルヴェークの二回目の演説は前回よりも印象は良かったが、議会の雰囲気を好転させるには至らなかった。12月4日、帝国議会は1912年に獲得した不信任投票権(帝国議会議院規則33条a項)を帝国史上初めて行使した。賛成293票、棄権4票、反対54票で、政府の行為は帝国議会の見解に沿わないとして不承認とした。なお、反対票はもっぱら保守系のグループが投じたものであった。 しかし、この投票は何の効果もなかった。このことは、ツァーベルン事件が20世紀初頭におけるドイツ帝国のパワー・バランスを示す一つの例であることを物語っている。社会民主党が、不承認の責任をとって宰相に辞任を要求した時、ベートマン=ホルヴェークはそれを拒否し、自分が皇帝の信任にのみ依拠していることを示した。これは帝国憲法第15条を見ればわかっていたことである。同条によると、皇帝はその意志によって宰相を交代させることができ、帝国議会の決議に従う必要がなかった。それは皇帝が全権力をもって帝国の「議会化」に抵抗するものであった。さらに、ベートマン=ホルヴェークは議会の問題が政府を拘束することを拒否した。帝国議会と政党は帝国において単に二義的な意義しか持たないとみなされたのである。 12月9日、社会民主党は政府の予算を否決して宰相をその職から追おうとしたが、十分な賛同を得られなかった。ポーランド党(ドイツ語版)がこの案に賛成したのみであった。
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