ベルリン封鎖と「空の架け橋」作戦
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「ベルリンの歴史」の記事における「ベルリン封鎖と「空の架け橋」作戦」の解説
詳細は「ベルリン封鎖」および「空の架け橋」を参照 1948年6月、ソヴィエトの駐屯軍はソヴィエト占領地域から西ベルリンに向かう道路と鉄道網をすべて封鎖し、ベルリン全体の経済を統制しようとした。大ベルリン市庁では東ベルリン同様、西ベルリンの全市民に対して食糧配給カードを配布したが、ほとんどの西ベルリン市民が食糧配給カードを利用しなかった。この封鎖は象徴的な事件で、もっぱら西側ドイツからの物資輸送を妨害するためだけに行われた。しかし西ベルリン市民は、自らを取り巻く政治情勢から、西部ドイツ経済圏の方に強い帰属意識を持ち、東側地区や周辺地域からの物資輸送に見切りをつけていった。 アメリカ政府はこの事態に対応し、食糧、燃料やそのほかの物資を西ベルリンに空輸する作戦(空の架け橋(ドイツ語版)、ベルリン空輸作戦)を実行する。ベルリン封鎖は1949年5月12日に解除されるが、空輸作戦は同年9月まで続行された。またこの作戦の一環としてアメリカ軍技術者によりテンペルホーフ空港が拡張された。この空輸作戦にあたって、パイロットが着陸時に子どもたちに菓子を窓から投げ落とすことがあったことから、ベルリン市民は空輸作戦に使われる航空機をレーズン爆撃機と呼んだ。なお菓子の包みは東ベルリンにも落とされた。 西ベルリンを自らが占領する地域に組み込み、また経済的に分離することを阻止しようとしたソヴィエト連邦の目論見は完全に失敗した。さらに、西ベルリンの住民は封鎖前よりも西部ドイツとの政治的・経済的な結びつきを強く認識するようになった。西ベルリンが政治的にも経済的にも乖離していく動きはもはやとどまることはなかった。
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