ヘンライコシティ、ヘンライコ・シャイア、ヘンライコ郡の一部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 22:16 UTC 版)
「チェスターフィールド郡 (バージニア州)」の記事における「ヘンライコシティ、ヘンライコ・シャイア、ヘンライコ郡の一部」の解説
1607年にジェームズタウンが設立されてから間もない17世紀初期、イングランド人開拓者と探検家が他の地域への入植を始めた。この植民地で開発が積極的に進んだ地域の1つが、トマス・デール卿の誘導下に設立されたヘンライカスだった。その指導には、バージニア・インディアンや開拓者の子供たちを教育するためのカレッジも含まれていた。デールは「ハモアーズ」と呼ばれる男達を伴っていた。これらオランダ戦争の退役兵は、ジェームズタウンの開拓者よりも武装が優れ、訓練もなされていた。 デールはその場所について、「ジェームズタウンから80マイル (128 km) 上流で、新しい町を造るための便利で強力で、健康的で心地よい場所を探した。(私の出発時に指導を受けていたことに従い)そこに主要地点を移動させるかもしれないものを造るために」と記した。今日そこはファラスアイランドと呼ばれ、広さ5,000エーカー (20 km2)、ジェームズ川の岸の長さ7マイル (11 km) の地峡となっている場所だった。イングランド人開拓者は間もなく、川岸から174ヤード (159 m) の幅に防柵と堀のような溝を造って入り口を守った。 デールはその新しい開拓地を、イングランド王ジェームズ1世の長男で皇太子のヘンリー・フレデリック・ステュアートに因み、ヘンライカスと名付けた。1619年に完成した「ヘンライカスシティ」は3本の道路に、枠組みのしっかりした家屋、1棟の教会、倉庫、病院1つ、物見櫓があった。1619年はバージニア植民地にとって分岐点となった年だった。ヘンライコなど4つの大きなシティが形成され、そのうちの1つに現在のチェスターフィールド郡が含まれていた。同年、アメリカでは初のフォーリングクリーク鉄工所が、フォーリング・クリークがジェームズ川と合流する点のやや西に設立された。1622年のジェームズタウンの虐殺で、インディアンがイングランド人を追い出そうとして、ヘンライコシティや鉄工所を破壊した。町も鉄工所も再建されなかった。植民地にカレッジができたのは1693年になってからであり、首都で現在のウィリアム・アンド・メアリー大学が王室の認証を受けた。 1634年、国王の命令でバージニア植民地に8つのシャイアが作られた。その1つがヘンライコ郡であり、ジェームズ川両岸にある広大な領域を取り込んだ。
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