ヘレニズムとイラン的伝統
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:41 UTC 版)
「パルティア」の記事における「ヘレニズムとイラン的伝統」の解説
セレウコス朝のギリシア文化(英語版)はヘレニズム時代の間に広く中東の人々に受け入れられたが、パルティア時代には芸術や衣服についてイランの伝統的文化(英語版)の復権が見られた。彼らの王権のヘレニズム的、ペルシア文化的な根源の双方を意識して、アルサケス朝の支配者たちはペルシアの諸王の王の後継者という体裁をとると共に、フィロヘレネス(ギリシア愛好者(英語版))であることを主張していた。この「philhellene」という言葉はパルティアのコインにアルタバノス2世の時代まで刻まれていた。このフレーズが使用されなくなったことは、パルティアにおけるイラン文化の復権を意味する。ヴォロガセス1世は造幣したコインにパルティアの文字と言語を使用した最初の王であり、これはほとんど判読不能なギリシア語と共に刻まれている。しかし、ギリシア文字の銘はこの帝国の滅亡までパルティアのコインに残され続けた。 また、アルサケス朝の王たちはギリシア演劇を楽しんでいたことを伝える次のような説話がある。クラッススの首級がオロデス2世に届けられた時、彼はアルメニア王アルタヴァスデス2世と共に劇作家エウリピデス(前480年-前406年)の『バッコスの信女』の上演を観賞していた。その時、アガウエとバッカナル(バッコス礼賛者)が殺害されたペンテウスの遺体を持ち込む名場面であった。アガウエに扮した訳者は即興で舞台用小道具のペンテウスの頭の代わりに、クラッススの実物の頭部を使用して高らかに歌ったという。。
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