ヘミングウェイの政治姿勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:46 UTC 版)
「老人と海」の記事における「ヘミングウェイの政治姿勢」の解説
スペイン内戦帰還兵がマッカーシズムの犠牲になっていた1950年、「エイブラハム・リンカーン旅団帰還兵の会(VALB)」会長ミルトン・ウルフから集会への協力依頼を受けたヘミングウェイは金銭援助を申し出ているが、その際に書きつけた未投函の手紙が発見されている。手紙には、「マッカーシー上院議員殿 キューバの拙宅フィンカ・ビヒアにお出でいただき、僕とボクシングで決着をつけようではないか」と書かれていた。 その後、『老人と海』の大成功により一段と名声と権威を増したヘミングウェイは、1954年4月『ルック』誌にエッセイを掲載し、サファリ紀行に事寄せてマッカーシズムを公然と批判した。 私がアフリカで二度の飛行機墜落事故に遭ったとき、ウィスコンシン選出のジョゼフ・マッカーシー上院議員が同乗してくれていたらと強く願ったものである。公的な人物には私も人並な好奇心を抱いているから、マッカーシー議員ならピンチに陥ったときにどうふるまうかぜひ拝見したいと願った次第だ。上院議員は誠にご立派なお人柄であることは間違いない。だからこそ私は次のようなことに興味を持つのである。もしマッカーシー殿が上院議員特権に守られていなければ、我が一行が狩の友としている荒野の野獣に襲われたら、はたして無傷でいられるだろうかとそのとき思ったわけである。 ヘミングウェイは一貫してキューバの大衆側にあり、アメリカ政府への批判は変わることがなかった。『老人と海』が出版されたとき、ヘミングウェイはコヒマルの漁師たちを自宅に招き、彼らから記念のメダルを贈呈された。ノーベル賞受賞の祝賀式典がモデーロビール工場で催されたときには、再び漁師たちが招待された。 フィンカ・ビヒアにおけるノーベル賞受賞の非公式の祝いの席で、ヘミングウェイは次のように語っている。 これはキューバに与えられた賞であります。なぜなら、この作品は、私が一市民であるところのキューバにおいて、コヒマルの仲間たちの援助によって、発想され、創作されたものだからです。 1961年7月2日、ヘミングウェイがアイダホ州ケチュムで自殺したことを知ったコヒマルの漁師たちは集会を開き、海に面した公園にヘミングウェイの胸像を建てることを決めた。しかし胸像の材料となるブロンズがなく、漁師たちは自分たちの船のスクリューを提供した。
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