ブハリ主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 08:59 UTC 版)
1983年12月31日に当時第3機甲師団(英語版)の師団長だったブハリを中心とするナイジェリア軍将校がクーデターを起こし、民政移管で成立したシェフ・シャガリ政権を打倒した。ブハリは国家元首である軍事評議会議長に就任すると、文民政権は絶望的なまでに腐敗し、社会から道徳が失われたとしてクーデターを正当化した。 ブハリの政策はブハリ主義(英語版)と呼ばれ、特に「無規律との戦い(英語版)」と称した国民キャンペーンによる綱紀粛正は熾烈さを極め、ナイジェリアの人々はバス停やエレベーターで整列しなければ鞭打ちで罰せられ、軽微な犯罪でも死刑に処された。報道の自由を抑圧して罪状なしでも3ヶ月まで反対派を拘禁できる法案を通過させ、ストライキやデモは禁止され、1984年10月までに汚職を理由に約20万人の公務員を解雇して約500人の政治家や実業家が投獄され、著名なミュージシャンで政治評論家でもあるフェラ・クティに懲役10年の刑を宣告し、アムネスティに政治的な弾圧であるとして非難を浴びた。また、国際通貨基金(IMF)がナイラを60%切り下げるよう要求したとき、IMFとの関係を断絶した。しかし、ブハリが自ら推進した経済改革はIMFが要求したものより厳格であった。 1985年8月27日にイブラヒム・ババンギダによって打倒され、ブハリは1988年までベニンシティで拘留された。ブハリ支持者は、ブハリの政策がその規律正しさで具体的な成果を出し始めたゆえに腐敗した勢力に打倒されたと信じていた。
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