フランク・リー・ウッドワード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/03 15:16 UTC 版)
「マヒンダ・カレッジ」の記事における「フランク・リー・ウッドワード」の解説
フランク・リー・ウッドワード(Frank Lee Woodward, 1871年 - 1952年)は、イングランドのノーフォークで聖公会の牧師の息子として生まれた。彼はヴィクトリア時代の典型的な男児としてパブリック・スクールへ入学した。そしてケンブリッジ大学への奨学金を獲得し、後に教師の職についた。ロンドン神智学協会に入会した彼はオルコットの親友となる。オルコットは彼にマヒンダ・カレッジの校長となるよう要請し、ウッドワードはそれを16年間務めた。 彼が同校の校長を務めたのは1903年から1919年までの16年間である。また彼は教室で英語、ラテン語、パーリ語、仏教、美術を教え、校長としての事務もこなした。そして現地の有力者の助けを借りつつ彼はカレッジを現在の場所へと移転させ、スリランカ南部の名門校へとカレッジを導いた。またカレッジ移転の際には設計者として建設工事を監督し、時には石工たちと共に作業をすることもあった。そして1919年、彼はカレッジをさる決意をした。 ウッドワードは校長を辞した後、オーストラリアのタスマニアへ移住した。そしてそこで仏教の聖典をパーリ語から英語へ翻訳した。そこでは菜食主義とヨーガを実践し、ターバンを着け、一人で過ごした。彼は42巻のうち18巻を英訳し、パーリ仏典の底本作成に大いに貢献した。
※この「フランク・リー・ウッドワード」の解説は、「マヒンダ・カレッジ」の解説の一部です。
「フランク・リー・ウッドワード」を含む「マヒンダ・カレッジ」の記事については、「マヒンダ・カレッジ」の概要を参照ください。
- フランク・リー・ウッドワードのページへのリンク