フランクの侵攻とイベリア北部の独立とは? わかりやすく解説

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フランクの侵攻とイベリア北部の独立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 17:59 UTC 版)

レコンキスタ」の記事における「フランクの侵攻とイベリア北部の独立」の解説

後ウマイヤ朝前途多難だった。北方キリスト教勢力国内アッバース朝支持者、さらに王位を狙う王族貴族ウマイヤ朝遺臣)が、統治不安定なものにしていた。このためアブド・アッラフマーン1世反抗的勢力徹底的に弾圧した。しかし、この弾圧のために一部反抗勢力フランク王国接近し、彼らのイベリアへの介入を招くこととなった778年カール大帝率いフランク軍は南下してサラゴサ包囲したが、本国での反乱知らせ撤退余儀なくされた。この時、追撃してきたバスク人との間にロンスヴォーの戦い起こり、後にこの戦いで戦死したブルターニュローラン(ルオドランドゥス)をモデルに「ローランの歌」が作られた。アブド・アッラフマーン1世は、この機会パンプローナ攻略し北部制圧足がかり作った785年からフランク王国再度攻勢出たルートヴィヒルイ1世率いられフランク軍は地中海側から侵攻しジローナ攻略しスペイン攻略橋頭堡とした。フランク軍はその後南下続け801年にはバルセロナ攻略した。後ウマイヤ軍の迎撃によって間もなく侵攻停止したが、獲得したバルセロナその後フランク軍の軍事拠点となった865年フランクバルセロナ伯置いてカタルーニャ統治させた。しかし、カタルーニャはしだいフランクと距離を置き始め、やがては完全な独立勢力となった一度征服されパンプローナだったが、地元有力者イニゴ・アリスタ中心となり、まもなく反旗を翻したイニゴ・アリスタ後ウマイヤ朝鎮圧軍を撃退し、さらに手を伸ばしてきたフランク軍も撃退した。同じ頃、ハカでもアスナール・ガリンド1世フランク貴族追い出していた。この2つ反乱によって、後ウマイヤ朝フランク王国ともにこの地方対す影響力低下した805年、アスナール・ガリンド1世アラゴン伯領を興し次いで824年イニゴ・アリスタナバーラ王国パンプローナ王国)を興した隣接する両国当初から親密な関係を維持し、後の905年サンチョ1世の代に婚姻通じて統合した

※この「フランクの侵攻とイベリア北部の独立」の解説は、「レコンキスタ」の解説の一部です。
「フランクの侵攻とイベリア北部の独立」を含む「レコンキスタ」の記事については、「レコンキスタ」の概要を参照ください。

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