フランクの侵攻とイベリア北部の独立
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「レコンキスタ」の記事における「フランクの侵攻とイベリア北部の独立」の解説
後ウマイヤ朝の前途は多難だった。北方のキリスト教勢力、国内のアッバース朝支持者、さらに王位を狙う王族や貴族(ウマイヤ朝の遺臣)が、統治を不安定なものにしていた。このため、アブド・アッラフマーン1世は反抗的勢力を徹底的に弾圧した。しかし、この弾圧のために一部の反抗勢力がフランク王国に接近し、彼らのイベリアへの介入を招くこととなった。 778年、カール大帝率いるフランク軍は南下してサラゴサを包囲したが、本国での反乱の知らせに撤退を余儀なくされた。この時、追撃してきたバスク人との間にロンスヴォーの戦いが起こり、後にこの戦いで戦死したブルターニュ公ローラン(ルオドランドゥス)をモデルに「ローランの歌」が作られた。アブド・アッラフマーン1世は、この機会にパンプローナを攻略し、北部制圧の足がかりを作った。 785年からフランク王国は再度の攻勢に出た。ルートヴィヒ(ルイ)1世に率いられたフランク軍は地中海側から侵攻し、ジローナを攻略してスペイン攻略の橋頭堡とした。フランク軍はその後も南下を続け、801年にはバルセロナを攻略した。後ウマイヤ軍の迎撃によって間もなく侵攻は停止したが、獲得したバルセロナはその後のフランク軍の軍事拠点となった。865年、フランクはバルセロナ伯を置いて、カタルーニャを統治させた。しかし、カタルーニャはしだいにフランクと距離を置き始め、やがては完全な独立勢力となった。 一度は征服されたパンプローナだったが、地元の有力者イニゴ・アリスタが中心となり、まもなく反旗を翻した。イニゴ・アリスタは後ウマイヤ朝の鎮圧軍を撃退し、さらに手を伸ばしてきたフランク軍も撃退した。同じ頃、ハカでもアスナール・ガリンド1世がフランクの貴族を追い出していた。この2つの反乱によって、後ウマイヤ朝、フランク王国ともにこの地方に対する影響力は低下した。805年、アスナール・ガリンド1世がアラゴン伯領を興し、次いで824年、イニゴ・アリスタがナバーラ王国(パンプローナ王国)を興した。隣接する両国は当初から親密な関係を維持し、後の905年、サンチョ1世の代に婚姻を通じて統合した。
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