フランクとの関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 16:28 UTC 版)
「ピアノ四重奏曲第2番 (フォーレ)」の記事における「フランクとの関連」の解説
ネクトゥーは、第1楽章の第1主題の「曲がりくねった旋律線」やいくつかの部分動機からなる構造、噴き上げるような力は、セザール・フランクの作風を思わせると述べている。また、この主題を含めて第1楽章の主題が他の楽章の各動機を生み出していることから、フランクが用いた循環形式が認められるとする。 フォーレのピアノ四重奏曲第1番が初演される少し前、1880年1月17日の国民音楽協会の演奏会でフランクのピアノ五重奏曲が初演され、センセーションを巻き起こしていた。また1887年、フォーレのピアノ四重奏曲第2番の初演から3ヶ月後にフランクのヴァイオリンソナタがパリ初演されており、フォーレが2曲のピアノ四重奏曲を書いた期間は、フランクが晩年の傑作群を発表していた時期と重なっている。この時期、二人は国民音楽協会の会合でも毎週顔を合わせる関係にあった。また、フォーレは青年時代からフランクの和声法とりわけ転調方法に深く魅せられ、1876年に出版された合唱曲『ラシーヌの雅歌』(作品11)はフランクに捧げられていた。 しかしネクトゥーは、フォーレの音楽はあらかじめ決められたコースをたどるのでなく、和声の運びが自然と形式を形作っていくしなやかさに特徴があり、フランクの作風とは大いに異なるとする。したがって、フランクからの影響はその転調方法においては明らかながらも、器楽作品においては、こののちフォーレは循環形式を次第に採用しなくなってゆく。ただし、歌曲の分野では循環形式の精神が反映されるようになった。
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