フェアポートからフォザリンゲイへとは? わかりやすく解説

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フェアポートからフォザリンゲイへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 10:46 UTC 版)

サンディ・デニー」の記事における「フェアポートからフォザリンゲイへ」の解説

アレックス・キャンベル(英語版)およびジョニー・シルヴォとともにサーガアルバム製作したのちに、デニー自身ボーカリストとして伸ばしてくれて、より幅広い聴衆得られ自作披露する機会のあるバンド探したデニーは「自分の声でなにかをもっとやりたかった」と述べている。短期間ストローブス活動した後でデニーは彼らがそのような機会与えてくれるとは納得できず、バンドとの関係を終えたフェアポート・コンベンションは、バンドデビューアルバム後でジュディ・ダイブル離脱したので代わり歌手のために1968年5月オーディション行いデニーが当然の選択だった。メンバーのサイモン・ニコルによればデニー人柄音楽性は、「流しいっぱい汚れた皿のなかのきれいなグラスのように」他の候補者から際立っていた。 1960年代末にデニーバンドとともに作った3枚アルバム1枚目である『ホワット・ウィー・ディド・オン・アワ・ホリデイズ』を手始めとして、デニーフェアポート・コンベンション伝統的なフォーク・レパートリーを探求することを促したことが知られており、このことからブリティッシュ・フォーク・ロックの発展におけるキーパーソンみなされている。デニーは、バンドとともに製作した2枚目のアルバムアンハーフブリッキング』に収録した船乗りの生涯』などの、フォーク・クラブで採録した伝統的なレパートリー持ち込んだ自分たちのエレクトリック即興演奏で、この曲のデニーパフォーマンス形作ることで、フェアポートのメンバー影響力のある1969年アルバムリージ・アンド・リーフ全体インスピレーションとなるものを発見したデニー1969年12月フェアポート・コンベンション脱退し自分曲作り本格的に行うようになったこのために、将来の夫となるエクレクション(英語版)の元メンバーオーストラリア人トレバー・ルーカス(英語版)も参加した自分バンドフォザリンゲイ結成した。 このバンドは、トラディショナルソング「バンクス・オブ・ナイル」の8分間バージョンや、「海」や「ナッシング・モア」などの数曲のデニーオリジナル曲収録した1枚セルフタイトルアルバム作製した。「ナッシング・モア」はデニー初めピアノ使って作った曲であり、これ以降ピアノデニー優先的な楽器になったフォザリンゲイ1970年末にセカンドアルバム録音開始したが、デニーグループからの脱退発表しプロデューサーのジョー・ボイド(英語版)がカルフォルニアワーナー・ブラザースで働くために去ったことから完成せずに終わったデニーは後に、ボイドグループ対す敵意が、グループ崩壊原因としている。

※この「フェアポートからフォザリンゲイへ」の解説は、「サンディ・デニー」の解説の一部です。
「フェアポートからフォザリンゲイへ」を含む「サンディ・デニー」の記事については、「サンディ・デニー」の概要を参照ください。

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