フェアポートからフォザリンゲイへ
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「サンディ・デニー」の記事における「フェアポートからフォザリンゲイへ」の解説
アレックス・キャンベル(英語版)およびジョニー・シルヴォとともにサーガでアルバムを製作したのちに、デニーは自身をボーカリストとして伸ばしてくれて、より幅広い聴衆を得られ、自作を披露する機会のあるバンドを探した。デニーは「自分の声でなにかをもっとやりたかった」と述べている。短期間ストローブスと活動した後で、デニーは彼らがそのような機会を与えてくれるとは納得できず、バンドとの関係を終えた。 フェアポート・コンベンションは、バンドのデビューアルバムの後でジュディ・ダイブルが離脱したので代わりの歌手のために1968年5月にオーディションを行い、デニーが当然の選択だった。メンバーのサイモン・ニコルによれば、デニーの人柄と音楽性は、「流しいっぱいの汚れた皿のなかのきれいなグラスのように」他の候補者から際立っていた。 1960年代末にデニーがバンドとともに作った3枚のアルバムの1枚目である『ホワット・ウィー・ディド・オン・アワ・ホリデイズ』を手始めとして、デニーはフェアポート・コンベンションが伝統的なフォーク・レパートリーを探求することを促したことが知られており、このことからブリティッシュ・フォーク・ロックの発展におけるキーパーソンとみなされている。デニーは、バンドとともに製作した2枚目のアルバム『アンハーフブリッキング』に収録した「船乗りの生涯』などの、フォーク・クラブで採録した伝統的なレパートリーを持ち込んだ。自分たちのエレクトリックな即興演奏で、この曲のデニーのパフォーマンスを形作ることで、フェアポートのメンバーは影響力のある1969年のアルバム『リージ・アンド・リーフ』全体のインスピレーションとなるものを発見した。 デニーは1969年12月にフェアポート・コンベンションを脱退し、自分の曲作りを本格的に行うようになった。このために、将来の夫となるエクレクション(英語版)の元メンバーのオーストラリア人トレバー・ルーカス(英語版)も参加した自分のバンド、フォザリンゲイを結成した。 このバンドは、トラディショナルソング「バンクス・オブ・ナイル」の8分間のバージョンや、「海」や「ナッシング・モア」などの数曲のデニーのオリジナル曲を収録した1枚のセルフタイトルのアルバムを作製した。「ナッシング・モア」はデニーが初めてピアノを使って作った曲であり、これ以降はピアノがデニーの優先的な楽器になった。フォザリンゲイは1970年末にセカンドアルバムの録音を開始したが、デニーがグループからの脱退を発表し、プロデューサーのジョー・ボイド(英語版)がカルフォルニアのワーナー・ブラザースで働くために去ったことから完成せずに終わった。デニーは後に、ボイドのグループに対する敵意が、グループ崩壊の原因としている。
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