フィンランドにおける外国人建築家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 15:39 UTC 版)
「フィンランドの建築」の記事における「フィンランドにおける外国人建築家」の解説
フィンランドで最初に有名になった建築家は外国人であり、19世紀にはサルデーニャ王国出身のカルロ・バッシ(英語版)とプロイセン王国出身のカール・ルートヴィヒ・エンゲル(英語版)などが新古典主義の設計を行った。しかし、その後はフィンランドで活動する外国人建築家が少なく、外国人建築家が設計するフィンランドの建築の例すら少なかった。また早期から影響力を発揮した建築家にはスウェーデン生まれのゲオルク・テオドール・キーヴィッツ(英語版)もおり、彼はネオルネッサンス様式とネオ・ゴシック様式の建築を設計した。アルヴァ・アールトの時代にはデンマークの建築家ヨーン・ウツソン、イギリスの建築家パトリック・ホッジキンソン(英語版)、スイスの建築家ブルーノ・エラト(Bruno Erat)など数十人の外国人建築家が短期間ながらアールトの事務所で働いた。このうち、エラトはフィンランドで定住、エコハウスの先駆者となった。イギリス生まれのスウェーデン建築家ラルフ・アースキンは1978年から1981年にかけてマルミンカルタノ(英語版)の公共住宅を設計したが、彼は以前に使用したユーザ参加型の設計を再び利用した。フィンランドの建築コンペでは外国人の参加を許可していたため多くの外国人がコンピで優勝を飾った。アメリカの建築家スティーヴン・ホールはフィンランドの大型な公的建物のコンペで優勝した後、外国人としてはじめて建築の委託を受けた。それはヘルシンキのキアズマ(ヘルシンキ現代美術館、1993年-1998年建築)のことだった。スウェーデンの建築家エリカ・ウェルマン(Erika Wörman)は1988年に行われた、ヴァンターのカルタノンコスキ(英語版)の住宅地域の設計コンペで優勝した。このときの設計は、ポストモダニズムを取り入れたカラフルな設計であり、当時のフィンランドでよくみられる設計とは大きく異なっていた。マンッタ(英語版)のゴスタ・セルラキウス博物館(フィンランド語版)(2014年)はバルセロナの建築家スタジオMX_SIにより設計された。また2015年のヘルシンキのグッゲンハイム美術館建設計画(英語版)のコンペではフランスと日本の建築家パートナーシップであるモロー・クスノキ・アーキテクト(Moreau Kusunoki Architectes)が優勝した。デンマークの建築家会社Nordgren Architectsは2016年から2017年にかけての3か月間、フィンランドの都市計画コンペに3回(パライネン(英語版)、タンペレ、ユヴァスキュラ)優勝した。外国人建築家が直接委託されることは少なく、特にいわゆるスター建築家はさらに少ない。ダニエル・リベスキンドは例外の1人であり、彼はタンペレ中央アリーナの設計を委託された(2011年-2018年)。フィンランド人建築家と外国人建築家の間のパートナーシップは数多く、一例としてはイギリスのヨーク・ローセンベルク・マーダル(英語版)(YRM)があるが、近年でもフィンランドの建築家ニクラス・サンドス(Niklas Sandås)とオーストリアの建築家クラウディア・アウエル(Claudia Auer)の間のパートナーシップ(2008年のトゥオマリラ昼間託児所など)やフィンランドの建築家ヘンヌ・キュイシク(Hennu Kjisik)とイギリスの建築家トレヴァー・ハリス(Trevor Harris)のパートナーシップ(2004年のユヴァスキュラ旅行センターなど)、フィンランドの建築家ティーナ・パルッキネン(Tiina Parkkinen)とオーストリアの建築家アルフレッド・ベルゲル(1999年の北欧諸国駐ベルリン大使館群など)がある。 ヘルシンキ現代美術館、アメリカの建築家スティーヴン・ホールによる設計、1998年建築。 ベルリンの北欧大使館群、フィンランドとオーストリアの建築会社アルシテクテン・ベルゲル+パルッキネン(Architekten Berger + Parkkinen)による設計、1999年。 ユヴァスキュラ旅行センター、フィンランドとイギリスの建築パートナーシップはリス-キュイシク・アーキテクト(Harris - Kjisik Architectsによる設計、2004年。
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