フィアット時代(1974年〜1981年)
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「マルク・アレン」の記事における「フィアット時代(1974年〜1981年)」の解説
アレンの1000湖ラリーでのパフォーマンスはフィアットとフォードの目に留まることとなる。まず1973年のRACラリー(現在のラリー・グレートブリテン)ではモータークラフトチームのフォード・エスコートRS1600で参戦。初日に転倒し一時は178位まで順位を落としながら、猛烈なプッシュで最終的には3位のリザルトを獲得する。このラリーでアレンは「ハードチャージャー」の異名を与えられ、そして、このラリーの結果、フィアットとの大型契約を結ぶこととなる。この契約には巨額の契約金のほか、個人的なフィットネスプログラムの提供といった内容も含まれており、アレンはそのような契約を結んだ最初のラリードライバーとなった。 1974年から1975年初頭にかけて、アレンはフィアット・アバルト124ラリーを駆ってWRCに参戦。速さは見せるもののリタイヤも多く、また、同じフィアット傘下のランチア・ストラトスが猛威をふるっていたこともあり、1974年のプレス・オン・リガードレスにおける2位が最高位となっていた。しかしランチアが欠場した1975年のポルトガルラリーで、アレンは序盤からチームメイトのハンヌ・ミッコラと共にワン・ツー体制を構築。フィニッシュまで激戦を繰り広げたものの最終的には1分17秒差で逃げ切り、念願のWRC初勝利を手にする。 1976年のモロッコ・ラリーからはマシンを新型のフィアット・アバルト131ラリーにスイッチ。デビュー2戦目の1000湖ラリーではフォードのティモ・マキネンを逆転で下し、WRC2勝目を挙げる。さらに1977年には第3戦のポルトガルラリーで勝利。続く第5戦ニュージーランドラリーでも3位入賞を果たすが、その後は4戦連続リタイヤと不安定な部分を露呈する。しかし、無敵を誇っていたランチアが、親会社であるフィアットの政治的判断によりこの年のラリー・モンテカルロを最後に撤退したこともあり、フィアットチームはフォードに僅差で競り勝ち、この年のマニュファクチュアラーズ・チャンピオンを獲得した。 続く1978年、アレンはまたもポルトガルラリーと1000湖ラリーを制し、さらにフィアットチームのサポートとしてランチア・ストラトスで出場したサンレモラリーでは、その思惑をよそにフィアットを駆るマウリツィオ・ベリーニに大差をつけて勝利。今期3勝目を挙げるとともに、ドライバーズチャンピオンの前身となるFIAカップを手にした(ドライバーズチャンピオンがWRCに導入されるのは翌1979年から)。 1979年、1980年もアレンはフィアットから参戦。いずれの年も1000湖ラリーの1勝ずつにとどまり、ドライバーズチャンピオンシップは3位と6位に終わるが、この勝利によって1000湖ラリー4年連続勝利の記録を樹立する。フィアット最後の年となる1981年、1000湖ラリーはフォードのアリ・バタネンに破れて2位に終わり連勝記録はストップするものの、第3戦のポルトガルラリーで勝利を挙げる。この勝利がフィアット・アバルト131ラリー最後の勝利となった。
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