フィアナ・フォイルの設立(1926年)
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「エイモン・デ・ヴァレラ」の記事における「フィアナ・フォイルの設立(1926年)」の解説
IRAが武力闘争路線の不毛さを悟って武器を「隠す」と、デ・ヴァレラも武闘路線を放棄して政治闘争へと戻った。1924年、デ・ヴァレラはニューリーにおいて北アイルランドへの不法侵入の容疑で逮捕され、1か月間ベルファストの刑務所に投獄された。「臣従の誓い」(忠誠条項)の廃止を含めた自由国憲法の受け入れを問う投票権を失ったことを受けて、デ・ヴァレラは党首を辞任、1926年3月に新党フィアナ・フォイル(共和党、「運命の兵士たち」の意味)を結成した。フィアナ・フォイルはこの後、20世紀のアイルランド政治史に大きな影響を及ぼすことになる。 フィアナ・フォイルは急速に民衆の支持を集めたが、臣従の誓いを拒否した。この誓いは形式的には英国王への誓いであったため、フィアナ・フォイルの支持者たちから批判されたが、実質的には「英愛条約を認めた英国王の権威への忠誠」という形をとったアイルランド自由国への誓いであった。この誓いの文面はほとんどがマイケル・コリンズによって書かれたものであり、マイケル・コリンズはこの文章を書くにあたって英連邦加盟国による臣従の誓い、アイルランド共和同盟の誓い、デ・ヴァレラ自身が起草した条約文の草稿の3つを元にしている。 フィアナ・フォイルは臣従の誓いを法的に廃止しようとしたが、国民会議の副議長ケヴィン・オ・ヒギンスが暗殺されたこともあって、W・T・コスグレイヴ率いる国民会議のメンバーはドイルの議員および議員候補者たちすべてに英国王への臣従の誓いを義務づけた。臣従の誓いを立てなければ立候補もできず、政界から追い出されてしまう危険性が高まったため、1927年にデ・ヴァレラはあくまで「形だけのもの」であるとしてついに臣従の誓いを行った。1931年、メイヨー県で「カトリックの国にはカトリックの司書長を」と唱えた住民たちの手によってプロテスタントの司書長が解雇されると、デ・ヴァレラは同地へ赴いて大歓迎を受けた。
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