ビルトモア・エステート建設
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「ジョージ・ワシントン・ヴァンダービルト2世」の記事における「ビルトモア・エステート建設」の解説
1898年6月1日、パリのアメリカ聖堂(American Cathedral in Paris)において、由緒ある名門出身の女性イーディス・ストイフェサント・ドレッサー(1873年 - 1958年)と結婚し、間に一人娘のコーネリア・ストイフェサント・ヴァンダービルト(1900年 - 1976年)をもうけた。イーディスは夫と死別後、上院議員のピーター・G・ゲリー(Peter G. Gerry)と再婚した。 ジョージは1880年代に母とともに何度もノースカロライナ州西部を旅行しており、1888年の旅行の際にはこの地にカントリー・ハウスを建てることを決めた。彼はアッシュヴィル郊外に広大な土地を買い求め、ビルトモア・エステートの建設に乗り出した。ジョージその後も土地の買い取りを続け、地所の面積は最終的には591 km2にまで広がった。地所は馬に乗って一回りするのに1週間はかかる広さだった。 地所の中心をなすビルトモア・ハウスは、ロワール川の古城群(Châteaux de la Loire)をモデルとしたフランス様式の館で、8000エーカーの床面積と250もの部屋数を誇り、ヴァンダービルト家の人々が建てた数々の大邸宅の中でも最大の規模であった。館の設計はリチャード・モリス・ハントが、地所の造園はフレデリック・ロー・オルムステッドが担当した。この館の最初のお披露目パーティーは1895年のクリスマスイブに盛大に行われた。優れた美術鑑定家であったジョージは、館を自分の目利きで選んだ東洋の絨毯、タペストリー、骨董品、ピエール=オーギュスト・ルノワールやジェームズ・マクニール・ホイッスラーの絵画作品、ナポレオン皇帝の愛用したチェス盤などで満たした。 ジョージはビルトモアの地所でカントリー・ハウスの主人としての生活に浸った。園芸学に深い関心を寄せ、科学的農法や動物の交配などの実験も試みた。ジョージはビルトモアの地所を完全な自給自足の土地にするのを理想としていた。1892年、ジョージは造園家オルムステッドの紹介で、後にアメリカ森林局(United States Forest Service)初代長官、ペンシルベニア州知事となるギフォード・ピンショー(Gifford Pinchot)を地所の森林の管理人として雇い入れた。
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