パーソナリティ論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 08:32 UTC 版)
その読書の中でゴールドン・オルポート(ハーバード大学)という心理学の学者の本に一番心惹かれた。それまでの心理学は単に人間関係、人間の性格、感情の動きということが中心だったが、オルポートだけは、「それも大事だが、その前にまず信仰で、どういう信仰を持っているかでパーソナリティの性格が決まる。」と述べていた。これは日本では聞いたことがなく、日本の心理学ではほとんど信仰ということを問題にいれていなかった。しかし、考えてみれば、どういう信仰を持っているかがとても重要で、信仰の深い人、浅い人、信仰を持たない人では、人柄が違ってくる。信仰というのは非常に大事で、これがパーソナリティのトップにある。その下に人生観、世界観、価値観という広い見方があり、その下に知識、その下に感情、そして、一番下に体質、体に密接した感覚的な情、衝動など、その下に無意識があるというのだ。 人間は大変広く、一種の人間学、人間全体、そういうものがある。特に聖書において人間をどう観ているのか、人間の成長、未熟から成熟へということ等、パーソナリティについて盛んに教会で語るようになる。このパーソナリティという見方から広く、人類の歴史、人類の発達へ考えを進めることになる。 人類の発達は未熟なところから中世、近代へ発達してくる、これは一種のパーソナリティの成熟への発達とよく似ている。民主主義は成熟したパーソナリティであると言える。日本は、戦後、その民主主義を国の方針とした。一方、日本の家庭問題、例えば、嫁と姑、考えると非常な運命的な血に重きをおく考え方である。「あなた方は、親子の関係と夫婦の関係とどちらが強いのか」と質問するとみな困った顔をする。親子は血の関係で、夫婦は他人であるけれど、契約により夫婦になっていく。うまくいっている間はよいが、ひとたび問題がおこると結局、婿さんは自分の妻より、血の関係の親の方についてしまう。そういうことで日本の家族の中で一番戦わなければならないのは、この血の問題を清算して、新しい原理に立たなければならないということであった。
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