バンド結成及び活動初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:54 UTC 版)
「アリス・イン・チェインズ」の記事における「バンド結成及び活動初期」の解説
1987年の8月頃にシアトルで開催されたパーティーでレイン・ステイリーとジェリー・カントレルが出会う。 その数ヶ月前にカントレルは自分の故郷にあるTacoma Little Theatreで、当時ステイリーがボーカリストして所属していたAlice N' Chainsのコンサートを観てステイリーの声に感銘を受けていた。カントレルは家を追い出されてから住むところがなかったため、リハーサルスタジオであるミュージック・バンクに住むようステイリーがカントレルを誘い、二人はルームメイトとなる。 ほどなくしてAlice N' Chainsは解散となりステイリーはファンクバンドに加入する。カントレルのバンドであるDiamond Lieも解散し新しいバンドを組みたいと考えていたところ、ステイリーからドラマーのショーン・キニーのガールフレンドであるメリンダ・スターの電話番号を教えてもらったことにより、キニーと話しミーティングをセットアップすることが出来た。キニーはガールフレンドと一緒にミュージック・バンクを訪れてカントレルのデモを聴き、ジャムセッションをするのにベーシストが必要だという話になった際にマイク・スターが思い当たる。カントレルはGypsy Roseというバンドでスターと一緒に演奏したことがあった。キニー曰く、自分のガールフレンドはマイク・スターの妹であり、スターとは子供の頃からずっと一緒にバンドで演奏している仲であった。キニーはスターに電話をかけ、数日後にはミュージック・バンクでスター及びカントレルとジャムセッションを始めたが、まだシンガーが不在の状態であった。 当時ステイリーが所属していたファンクバンドがギタリストを探していたためステイリーがカントレルに加入を頼んだところ、ステイリーがカントレルのバンドに加わってくれるならという条件で了承を得る。カントレル、スター、そしてキニーはステイリーに自分達のバンドのリードシンガーになって欲しかったので彼の目の前でわざと酷いシンガー達のオーディションを始めた。男性のストリッパーがオーディションを受けた際に我慢の限界を迎え、ステイリーはバンドへの加入を決める。結局はステイリーのファンクバンドは解散し、1987年にカントレルのバンドに専任メンバーとして加わることとなる。バンドの結成から2週間後にワシントン大学でギグをし、数曲のオリジナル曲とハノイ・ロックス及びデヴィッド・ボウイのカバーを演奏した。 太平洋岸北西部周辺のクラブで何度かギグをおこない、ステイリーの昔のバンド名であったAlice in Chains(日本語表記:アリス・イン・チェインズ)を採用するまではカントレルの以前のバンドの名称であるDiamond LieやFuckをバンド名として名乗っていた。ステイリーは昔のバンドメンバーに連絡を取り、Alice in Chainsの使用許可を得る。 地域のプロモーターであるRandy Hauserがコンサートで彼らに注目しデモ音源のオファーを申し入れたが、ミュージック・バンクでレコーディングをする予定日の前日に、警察による州の歴史上最大の大麻の強制捜査のためスタジオが閉鎖されてしまう。1988年に完成した最終版のデモテープはThe Treehouse Tapesというタイトルが付けられ、音楽業界のマネージャーであったケリー・カーティスとスーザン・シルバーの手に渡る。カーティス及びシルバーはコロムビア・レコードのA&Rの代表であったNick Terzoにデモテープを渡し、彼がレーベルの社長のドン・アイナーとアリス・イン・チェインズのアポを取り付けた。The Treehouse Tapesを聴いてTerzoは1989年にバンドとコロムビア・レコードの契約を結ぶ。そして1989年に3ヶ月かけてタイトルが付されていないデモを新たに録音し、この音源はSweet Aliceというブートレグに収録されている。
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