ニューヨーク州立大学ストーニブルック校在職時期
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「ベンジャミン・W・リー」の記事における「ニューヨーク州立大学ストーニブルック校在職時期」の解説
1965年の秋に、プリンストン高等研究所の楊振寧からの誘いを受け、ベンジャミン・リーは1966年5月にニューヨーク州立大学ストーニブルック校に訪問教授として招聘され、9月から理論物理学研究センターの教授として赴任した。 1967年11月、スティーヴン・ワインバーグは《フィジカル・レビュー・レター》に〈A Model of Leptons〉を発表し、ベンジャミン・リーは論文掲載のための審査を依頼された。 この論文は電磁相互作用と弱い相互作用を統一的に記述するものであり、後に電弱統一理論やワインバーグ=サラム理論と呼ばれることになる。この業績により、ワインバーグは1979年にノーベル物理学賞を受賞した。 1968年にアメリカ合衆国市民権を取得し、翌年の1969年までグッゲンハイム基金の研究会員(en:List of Guggenheim Fellowships awarded in 1968, No.128)を務めたが、この期間中彼はフランスで家族と一緒に休日(en:Leave of absence)を過ごしながら、高等研究実習院で自由な研究活動を行った。ここで彼は自発的対称性の破れとそれによる南部ゴールドストーン・ボソンなどに深い興味を抱き、線形シグマ模型(en:Sigma model)の繰り込みに関する論文を執筆した。 1970年6月、ベンジャミン・リーはコルシカ島でのカジュース(en:Cargèse)夏の学校に講演者として招聘された。ここで彼はシグマ模型の自発的に破れた対称性とその繰り込みに関して講義した。オランダの大学院生ヘーラルト・トホーフトは指導教員のマルティヌス・フェルトマンと一緒にヤン=ミルズ理論の繰り込みに関して研究していて、夏の学校のベンジャミン・リーの講義を受けたが、これに決定的に助けられたと後日回顧した。 1971年にマレー・ゲルマンの招聘で、カリフォルニア工科大学の交換教授で5か月間在職した。 1972年10月に朴正煕が自分の独裁のために維新憲法を宣布したとき、ベンジャミン・リーは外国人同僚たちに合わせる顔がないと、近くの韓国人の友人たちに吐露していた。姜慶植・元ブラウン大学教授は、母国訪問学術会議や夏季シンポジウムの講演者招聘の受諾をベンジャミン・リーに勧めていたが、その度、朴正煕が独裁を続けている限りはそういうことは断じてしないと固く断っていた。
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