ニコライ・レザノフの来航と通商の要求(1804年)
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「幕末の砲艦外交」の記事における「ニコライ・レザノフの来航と通商の要求(1804年)」の解説
ニコライ・レザノフは、露米会社経営者であったが、その発展に日本との交易が重要と考えており、使節の派遣を宮廷に働きかけた。彼は日本人漂流民の津太夫一行を送還する名目で、遣日使節としてロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えた正式な使節団を率いることとなり、ラクスマンが入手した信牌を携え、アーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの世界一周航海艦隊の隊長としてペテルブルクから出航し、南米回りで太平洋を航海してカムチャツカへ到着した。1804年(文化元年)ナジェージダ号に乗って9月に長崎の出島に来航する。しかし、交渉は進まず、レザノフたちは半年間出島に留め置かれることになる。翌年には長崎奉行遠山景晋から通商の拒絶を通告された。レザノフは長崎での交渉が膠着した経験から「日本に対しては武力をもっての開国以外に手段はない」と上奏した。のち撤回したものの部下のフヴォストフが単独で1806年に樺太の松前藩の番所、1807年に択捉港ほか各所襲撃する(フヴォストフ事件、文化露寇)。フヴォストフ事件により日露関係は緊張する。以後、江戸幕府は自らの威信維持のために内外に対して強硬策を採らざるを得なくなり、やがて1811年にはゴローニン事件が発生する。 艦名艦種建造年トン数乗組員機関出力備砲ナジェージダ 帆走フリゲート 不明 積載量350トン程度?(bmトン) 76 無 不明
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