ニコライレザノフの来航と通商の要求とは? わかりやすく解説

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ニコライ・レザノフの来航と通商の要求(1804年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 00:53 UTC 版)

幕末の砲艦外交」の記事における「ニコライ・レザノフの来航と通商の要求(1804年)」の解説

ニコライ・レザノフは、露米会社経営者であったが、その発展日本との交易が重要と考えており、使節派遣宮廷働きかけた。彼は日本人漂流民の津太夫一行送還する名目で、遣日使節としてロシア皇帝アレクサンドル1世親書携えた正式な使節団率いることとなり、ラクスマン入手した信牌携えアーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン世界一周航海艦隊隊長としてペテルブルクから出航し南米回り太平洋航海してカムチャツカ到着した1804年文化元年)ナジェージダ号に乗って9月長崎出島来航する。しかし、交渉進まずレザノフたちは半年出島留め置かれることになる。翌年には長崎奉行遠山景晋から通商拒絶通告された。レザノフ長崎での交渉膠着し経験から「日本に対して武力をもって開国以外に手段はない」と上奏した。のち撤回したものの部下のフヴォストフが単独1806年樺太松前藩番所1807年択捉港ほか各所襲撃するフヴォストフ事件文化露寇)。フヴォストフ事件により日露関係緊張する以後江戸幕府は自らの威信維持のために内外に対して強硬策を採らざるを得なくなり、やがて1811年にはゴローニン事件発生する艦名艦種建造トン数乗組員機関出力備砲ナジェージダ 帆走フリゲート 不明 積載量350トン程度?(bmトン76不明

※この「ニコライ・レザノフの来航と通商の要求(1804年)」の解説は、「幕末の砲艦外交」の解説の一部です。
「ニコライ・レザノフの来航と通商の要求(1804年)」を含む「幕末の砲艦外交」の記事については、「幕末の砲艦外交」の概要を参照ください。

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