ナッシュ=ヒーリーの登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 03:48 UTC 版)
「ナッシュ・モーターズ」の記事における「ナッシュ=ヒーリーの登場」の解説
1951年にはナッシュ=ヒーリースポーツカーが登場した。ジョージ・メイソンと英国のスポーツカーメーカー、ドナルド・ヒーリーが手を組んだもので「アングロ=アメリカン」カーと言われる、強力なアメリカ製エンジンと設計やデザインに優れたイギリス製シャーシ・ボディを組み合わせた自動車の、早い事例である。 ヒーリーがシャシーとサスペンション設計製造をおこない、1952年まで、アルミボディは英国のパネルクラフトシートメタル社(Panelcraft Sheet Metal Co. Ltd.,)がバーミンガムで生産した。ナッシュ社は駆動系(パワートレイン)を船積みした。ヒーリーは組み立てし、船積みして米国で販売された。1952年にイタリア人のデザイナーバッティスタ・ファリーナがボディのスタイルを手直しし、製造もスチールとアルミとに変更された。 画期的な試みであったが、原価が上昇した一方で販売は低迷した。ナッシュ社は主力車種となりつつあったランブラーに目を向けるようになり、1954年にはナッシュ=ヒーリー生産は終了した。生産台数は506台だった。 メイソンはファリーナにランブラーをベースとした2座のクーペ、「パームビーチ(Palm Beach)」の設計を委託した。ナッシュ=ヒーリーの後継を想定したモデルである。しかし、このプロジェクトは試作車の域を出なかった。 ヨーロッパの耐久レース用に、ヒーリーと彼のスタッフは特別版ナッシュ=ヒーリー車を3台、設計生産した。質実剛健で、軽量アルミ製のレース用ボディだった。この競技用モデルはル・マンレースに連続4回、またミッレミリアに2度、出場した。生産モデルのナッシュ=ヒーリーとは全く関係がなく、またその外観も全く異なっている。 ルマンの結果は1950年総合4位、1951年総合6位およびクラス4位、1952年総合3位およびクラス優勝、1953年総合11位だった。ミッレミリアの結果は1950年に総合9位、1952年に総合7位クラス4位だった。
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