ナザレ派に対する批評
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/10 04:50 UTC 版)
プロイセン君主による封建制を批判する社会主義者からは、宮廷が支援するナザレ派は攻撃対象となった。デュッセルドルフの住人であり、科学者や芸術家を前衛と呼びキリスト教からの肉体と精神の解放を標榜するサン=シモン主義者であったハインリヒ・ハイネは、著作『旅の絵』(1828年)のなかでコルネリウスの作品について、人類の進歩を妨げる心霊主義として批判し、『ルッカの街』(1829年)では「イタリア・ルネサンスの色褪せた模倣」と断じた。その後『ルートヴィヒ・ベルネ論』(1841年)のなかでは「ナザレ派」の用法を拡大し、表現の自由・感覚的な美であるギリシャ主義の理想に反しているとハイネが考える歴史上の精神主義者全てを指すカテゴリーと論じた。 ハイネの師であったヘーゲルは1820年代にベルリン新美術館の収蔵品を収集する仕事を任されており、ナザレ派の作品もその中に含まれている。ヘーゲルは何人かのロマン主義美術家については批判的だったが、『美術講義』(1835年-)において芸術精神の現実化を発展段階モデルで提示し、ロマン主義美術は美術史の頂点を表すものと論じた。 哲学者フォイエルバッハは『キリスト教の本質』(1841年)のなかでナザレ派の宗教絵画の特徴である、神霊主義的形象性と人間的感性の疎外の関係について批判した。フォイエルバッハの美術論は、その後マルクスのキリスト教美術批判に影響を与えた。
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