トレイルブレイザーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 14:09 UTC 版)
「ジェフ・ペトリー」の記事における「トレイルブレイザーズ」の解説
プリンストン大学卒業後、1970年のNBAドラフトにて全体8位指名を受けてポートランド・トレイルブレイザーズに入団。ブレイザーズは1970年に誕生したばかりの新球団であり、ペトリーはブレイザーズ史上初のドラフト指名選手であり、そしてブレイザーズ初のスター選手となった。 ペトリーは1年目からチームのエースとして活躍、24.8得点4.8アシストの成績を残し、NBA史上オスカー・ロバートソン以来2人目となるルーキーイヤーに通算2,000得点以上を達成したガードの選手となり、NBAオールスターゲームにも出場。ボストン・セルティックスのデイブ・コーウェンスと共にルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝いた。当然ブレイザーズにとっては初のオールスター選手であり、初のルーキー・オブ・ザ・イヤー受賞である。 選手としてのペトリーはロングレンジからのジャンプショットを得意とした優秀なシューターで危険なスコアラーだった。平均24.8得点をあげた1972-73シーズンには2回51得点を記録。これはデイモン・スタウダマイアーに次ぐブレイザーズ史上2位の記録である。また4回の延長を戦った1974-75シーズンの開幕戦、クリーブランド・キャバリアーズ戦での61分間出場、1970-71シーズンのシアトル・スーパーソニックス戦で記録したフリースロー試投数21本、成功数18本、1972-73シーズンと1973-74シーズンに記録したフィールドゴール成功数20本はいずれもブレイザーズのフランチャイズ記録となっている。 キャリア晩年は膝の故障に苦しみ、1976年に引退。NBAキャリアは6年間と短いものだった。通算成績は446試合の出場で21.8得点4.6アシスト、フリースロー成功率80.5%であり、キャリア平均20得点以上を維持したまま引退した数少ない選手の一人となった。 ブレイザーズはペトリーが入団した翌年にシドニー・ウィックスが、1974年にはビル・ウォルトンが入団し、徐々に戦力を揃えていったが、ウォルトンの故障の多さなどが響き、ペトリーが所属した期間中にプレーオフ進出することはついぞなかった。しかしペトリーが引退した翌1976-77シーズンにはプレーオフに進出すると、優勝を果たしてしまっている。 現役引退後、数年間は企業勤めの一般的なサラリーマンとして過ごしたが、1985年にはブレイザーズに戻り、チームスタッフとしてラジオ解説者などを務めた。その後チームのシューティング・コーチを経て、シニア・バイス・プレジデントに就任。この期間ブレイザーズはクライド・ドレクスラーのもとNBAファイナルに2度進出するなど、第二次黄金期と言える時代を築いている。
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