トビリシの包囲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/07 06:29 UTC 版)
「第三次ペルソ・テュルク戦争」の記事における「トビリシの包囲」の解説
西突厥と東ローマ帝国の次の攻撃目標はイベリア公国であり、イベリア公のステファノス1世(英語版)はサーサーン朝の王であるホスロー2世(在位:590年 - 628年)に臣従していた。カガンカトヴァツィの言葉によれば、ハザール人が「大きく享楽的な交易都市として知られたトビリシに押し寄せ、完全に包囲した」。そしてすぐに東ローマ皇帝ヘラクレイオスとその強力な軍隊の下に加わった。 ヘラクレイオスと統葉護可汗(東ローマの文献では Ziebel と呼ばれる)は、ナリカラの城壁の麓で対面した。統葉護可汗はヘラクレイオスの下に近づき、肩に口付けをして一礼をした。返礼にヘラクレイオスは蛮族の支配者を抱きしめ、可汗を我が息子と呼び、自らの王冠を可汗の頭上に載せた。続く祝宴の間にハザールの指導者は礼品として有り余る程の耳飾りと織物を受け取り、一方の統葉護可汗はヘラクレイオスの娘であるエウドクシア・エピファニア(英語版)との婚姻を約束された。 包囲戦は大きな進展がなく長期化し、守備側の再三にわたる反撃によって攻撃が中断された。2か月後、ハザールは秋までに戻ることを約束して草原地帯へ撤退した。統葉護可汗は包囲中のヘラクレイオスを支援する40,000人の軍勢の指揮官として息子か甥である若い歩利設(英語版)(ボリ・シャド)を残して去った。しかしこれらの軍勢もやがて去り、東ローマ軍は包囲を単独で続けることを余儀なくされ、守備側からの野次を引き起こすことになった。 ジョージア人が皮肉を込めてヘラクレイオスの行った近親結婚に対する暗喩である「ヤギ」と呼んだ際に、ヘラクレイオスはダニエル書の一節から、一つの角を持つ雄ヤギによって倒された二つの角を持つ雄羊の物語を思い起こした(雄羊はメディアとペルシアの王を、雄ヤギはギリシアの王を示唆している)。ヘラクレイオスはこれを良い兆候と解釈し、南方のペルシアに向かって進軍を開始した。627年12月12日、チグリス川の岸に現れたヘラクレイオスと東ローマ帝国の軍隊は、ニネヴェの遺跡の近くでペルシア軍と激突して勝利を収めた(ニネヴェの戦い)。翌628年の1月にはサーサーン朝の首都クテシフォンの周辺を荒廃させ、東ローマ帝国のサーサーン朝に対する関係を大きく好転させた。
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