デビ政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/11 19:11 UTC 版)
1989年4月、ハブレ大統領の軍事顧問をしていたイドリス・デビの一派はスーダンに亡命した。そこで党派愛国救済運動(MPS)を結成し、ハブレ派の攻撃を始めた。1990年12月に、デビらの軍隊はチャドの首都ンジャメナに侵攻し、ハブレ大統領を国外追放した。そして1991年2月28日、デビは大統領に就任した。 1992年から1993年にかけて、少なくとも2回のクーデターが計画されたと言われている。デビ大統領は、チャド湖周囲の南部の反政府勢力を弾圧する一方で、民主化に向けて野党や軍部、労働者の代表との対話集会を開いた。野党との対話は不成功に終わったものの、1996年にデビ大統領は選挙の実施を約束した。同年に実施された大統領選挙は、2回の投票を経て、デビ大統領が当選を果たした。翌1997年には議会選挙も実施された。与党のMPSは125議席中63議席を獲得し、単独過半数を得た。しかし、国際選挙監視団から、多数の不正を指摘された。さらに、2001年5月に行われた大統領選挙で、デビ大統領は再選を果たしたものの、やはりこの時も、選挙監視団からデビ大統領の不正が多数報告された。 1990年代半ばから、デビ大統領は世界銀行とIMFの融資を受け入れ、経済の再生と政府機能の回復を目指した。2000年に世界銀行から融資を受けて、ドバ油田の原油を輸出するためのパイプラインの建設を開始した。2003年10月に、南部のドバ(英語版)(ドバ油田)からカメルーンのクリビ港まで、全長1070 kmのパイプラインが完成し、日量10万バーレルの石油生産が始まった。
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