デビュー・「世捨て」
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大学卒業後は東京日本橋の広告代理店・中央宣興に入社する。その後、1971年2月から現代評論社の『現代の眼』編集部に勤務 する。三島由紀夫の自殺に触発され、また創元文庫の「西行法師全歌集」を読んで「世捨て」という生き方に強く心を奪われて発心して、会社員生活の傍ら、私小説を書き始め、1972年、処女作『なんまんだあ絵』(『鹽壺の匙』所収)で新潮新人賞の候補となる。 1973年、現代評論社を辞めて、朝日新聞社の中途採用試験に合格したものの、石油危機の影響で内定を取り消される。筆で身をたてようとするも、原稿を没にされ続けて行き詰まり、無一文になり 1976年1月30日、夜行列車に飛び乗って故郷へ逃げ戻る。母親に激怒され「一生旅館の下足番でもやれ」と言われ、職業安定所に行くと本当に旅館の下足番の募集があったため、そこに雇われた。下足番として働きつつ、姫路忍町のみかしほ調理師専門学校で学び、1977年3月に同校を卒業する。 30歳からの8年間は、旅館の下足番や料理人として、神戸、西宮、曽根崎、尼崎、三宮などのタコ部屋を転々と漂流する住所不定の生活を送っていた。当時は朝6時から夜11時まで働き、月給は2万円から5万円であった。宮澤喜一や竹中正久の靴を揃えたこともあり、特に竹中からは「あんたのようなええ若い者(もん)が、なんでこんなところで下足番しとんや」と言われ、1万円のチップを貰ったという。世捨人の生活をしていたとされるが、正確にはこの雌伏期間、『新潮』1976年5月号に「魔道」(「白桃」に改題)を、同誌1981年8月号に「萬蔵の場合」を、『文學界』1982年5月号に「雨過ぎ」(「ある平凡」に改題)を発表して、「萬蔵の場合」は第86回芥川賞候補となっている。
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