テクニオン開校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/28 14:35 UTC 版)
「イスラエル工科大学」の記事における「テクニオン開校」の解説
テクニクム敷地内の建設物の状態はかなり悪化していた。イギリス軍は敷地内に病院を立て、よりによって井戸の真上を占領した。施設内の機械設備のほとんどは、戦時中に盗難にあったり、売り払われたりしてしまった。これらが原因で、機械設備の修理・新調のための資金が至急必要になった。同様に、イギリス人にその土地の立ち退きを交渉せねばならなかった。必要資金の調達、建築物の修復、および機械の新規購入にあたって、中心的に活躍したのがハイム・ヴァイツマン博士であった。これらの手続きを行うために、5年を費やすことになった。この過程には、修繕作業、機械や教育設備の購入のための資金調達、教員や管理職員の選定、そしてテクニクムの専攻カリキュラムの構成などが含まれる。 1924年9月、この技術者学校を「テクニオン(原語に注意:תכניון)」と読んではどうかという、ハイム・ナフマン・ビアリクの提案が受け入れられることになった。(彼の主張によると、ギリシャ語で「技術的な」を意味する「テクニー(טכני)」という言葉は、古来のヘブライ語で「設計」などを意味する「テヘン(תֶּכֶן)」が伝わったもので、言葉の逆輸入になるというものである。)1945年になってようやく、今の「テクニオン(原語:טכניון)という名前が確定した。 1923年には、アルベルト・アインシュタインがテクニオンを訪問、一年後には学内委員会の委員長になることに合意した。 1924年12月14日、はじめて夜間教室が実施され、定礎式から13年後にあたる1925年2月6日、公式にテクニオンの開校セレモニーが行われた。 開校当時の敷地面積は46ドゥナムで、7つの建物を有し、そのうちの1つで集中して勉学が行われた。施設の幹部は6人の教員を採用し、学生数は16人、部門は建築学と市民工学のみであった。 最初の数年間は、テクニオンの管理職員たちは様々な問題に直面したが、その中でも重大なのは、やはり資金不足であった。
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