テクニオン創立から今日まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/28 14:35 UTC 版)
「イスラエル工科大学」の記事における「テクニオン創立から今日まで」の解説
19年間にわたってテクニオンを運営してきたシュロモー・カプランスキーは、現存の学部に加えて機械工学、電気工学、そして化学工学の学部棟を作った。この時代(1930年代)にテクニオンは急成長を遂げ、ドイツのナチズムの脅威から逃げ出した数多くの科学者たちを受け入れる窓口の役割も果たした。 テクニオンの歴史において重要な転換は1950年代から始まる。この時期にテクニオンはシオニズム共同体から分離されて独立した施設となり、名称を「テクニオン - イスラエル工科大学(イスラエル科学技術研究所」と改め、今日に至っている。また研究分野が拡大し、生物学、農業工学、航空宇宙工学、食品工学、材料工学、経営工学、そして科学技術教育学の学部が開かれた。数学、化学、物理学はそれぞれ独立した部門となり、人文科学・芸術課も新たに建設された。テクニオンを取り巻く建築物が密集するあまり、施設の増築ができなくなり、新しいキャンパスに移動せざるを得なくなった。ナヴェー・シャアナンの新キャンパスへの移転は25年かけて段階的に行われた。ハダル・ハカルメルのキャンパスから、ナヴェー・シャアナンのキャンパスに最後に移転することになるのは建築学部であった。 物理学部を創設したのはEPRパラドックスという革命的な論文をアルベルト・アインシュタインと共著したことで有名な物理学者、ネイサン・ローゼンである。1960年代には、医学と計算機科学の学部が設立され、学修制度は従来のものから、累積型に変更された。この時期に学生数は7000人を超え始めた。ネゲヴ・ベン=グリオン大学の工学部が設立されるまでの長い期間、テクニオンはイスラエルで唯一の工学学位を授与する機関であった。 1990年、ゼエブ・タドゥモール教授がテクニオン学長に任命され、本校卒業生が学長になるのは初めてのことであった。 テクニオンは創立から今日まで、7万人近い卒業生を輩出してきている。2007年現在、テクニオンでは総勢1万3千人を超える学生が学んでおり、そのうち約1万人が学士課程である。女性が学士課程の学生全体の3分の1を占めており、3千人近い女学生が学んでいる。ほとんどの学部において、女性の占める割合は国における平均値を上回っており、当校の誇称すべきこととなっている。
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