チャールズ2世出陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/29 07:10 UTC 版)
「ウスターの戦い」の記事における「チャールズ2世出陣」の解説
7月30日に体調が回復したクロムウェルはスターリングに残ったスコットランド軍と決着をつけるべくパースに入った。一方でクロムウェルが兵を率いてやってくる時こそイングランド軍の多くがスコットランドに集結し、イングランド本国は守りが手薄になっているとチャールズ2世は分析し、各地の王党派に呼びかけながら南進するようスコットランド軍を指揮するデイヴィッド・レズリーに促した。これに対してレズリー自身は地の利を生かせるスコットランドで抵抗を続けるべきだと考えていたが、結局は折れて31日にチャールズ2世と共にスターリングを発ち、スコットランド軍の主力を率いて大胆な南進を開始した。8月5日にチャールズ2世はイングランドの国境を越えて南下、翌6日にイングランド王を宣言した。 しかし、王党派がこうした行動に出ることはクロムウェルもウェストミンスターの議会も想定の範囲内であった。主要な王党派の動きは予め監視されており、ロンドンに残されていたチャールズ・フリートウッドが7日に戦地勤務の経験を持つ14,000の精兵を率いてバンベリーに入って、強制的に王党派が邸宅に隠していた武器などを没収して無力化した。クロムウェル自身もジョージ・マンクをスコットランドの抑えに残して本隊を急ぎ南下させてイングランド東部を全速力で行進しながら、ジョン・ランバートとハリソンに途中で兵を分けてチャールズ2世の軍隊に対峙させた。 ランバートとハリソンは13日にウォリントンに架かる橋の防御を固めてチャールズ2世の軍勢を止めようとしたが、これを突破された(ウォリントン・ブリッジの戦い(英語版))。22日にチャールズ2世はウスターに到着したが、フリートウッドの働きによってロンドンに近い都市での王党派の蜂起は不発に終わっていたことから、このまま勢いだけでロンドンへと行進する事は難しいと判断し、ここで一旦足を止めてウスターの防備を固めつつ王党派の結集を待った。しかし、マン島からイングランドに上陸してウスターへの援軍にと駆けつけようとした王党派のダービー伯ジェームズ・スタンリーは25日のウィガン・レーンの戦い(英語版)でイングランド軍のロバート・リルバーン(英語版)に大敗した。彼の地盤だったランカシャーでは南下中にチャールズ2世が休憩しながらイングランドへ募兵を呼びかけたが、僅かなジェントリと2,000人の一般人しか参加せず、王党派はこの時からイングランドで孤立していた。
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