チャンドラ・ボース訪日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 23:59 UTC 版)
「インド国民軍」の記事における「チャンドラ・ボース訪日」の解説
しかし、元英印軍士官であったモーハン・シンの罷免を行ったことで、インド国民軍の多くを占める元英印軍兵士の一部からのビハーリー・ボースに対する信頼が低下した上に、心労から病気がちとなったビハーリー・ボースは強い統率力を維持できなくなった。そのため、日本軍はビハーリー・ボースの側近でもあったA.M.ナイルの進言を受け、新たなインド国民軍の指導者として、亡命中のドイツで北アフリカ戦線で捕虜となった英印軍兵士から志願者を募って「インド旅団」を結成し、イギリスに対峙していたインド国民会議派元議長のスバス・チャンドラ・ボースの招聘を計画した。 それ以前にも、日本政府によるチャンドラ・ボースの招聘が検討されたことはあったが、ビハーリー・ボースに対する気兼ねと日独関係への影響を考慮して、これまで来日招聘には消極的であった。しかし、ビハーリー・ボースにその意向を打診したところ、そのころすでに病気がちであった彼自身もチャンドラ・ボースの訪日を強く希望したため、問題はたちまち氷解した。 1943年2月に、チャンドラ・ボースはドイツのキール軍港をドイツ海軍のUボート「U180」で出発し、途中マダガスカル島沖で日本海軍の伊号第二九潜水艦に移乗、4月に日本へ到着する。同年7月4日、シンガポールにおけるインド独立連盟総会において、ビハーリー・ボースはインド独立連盟総裁とインド国民軍の指揮権をチャンドラ・ボースに移譲した。その席上でチャンドラ・ボースは、「まだまだあなたの力を借りたい」とビハーリー・ボースにインド独立連盟の名誉総裁への就任を要請し、2人は壇上で固い握手を交わしたという。 翌日、チャンドラ・ボースは興奮する数万のインド国民軍将兵とインド人大衆を前に、インドの武力解放を熱烈に訴えた。その演説は、「チャロー・ディッリー(चलो दिल्ली:進め!デリーへ)」で締めくくられ、インド人たちを熱狂させた。同年10月に、チャンドラ・ボースはシンガポールに自由インド仮政府を樹立し、その主席に就任し、併せてイギリスとアメリカへ宣戦布告した。
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