ダイムラー・モトーレン時代
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「フェルディナント・ポルシェ」の記事における「ダイムラー・モトーレン時代」の解説
1923年4月、本家ともいうべきダイムラー・モトーレンに主任設計者として迎えられ技術部長兼取締役に就任し、家族とともにヴァイマル共和政下のドイツ・シュトゥットガルトに移った。片腕であったオットー・ケラーとテストドライバーであったノイバウアーがアウストロ・ダイムラーからポルシェに従って転職して来た。最初の仕事は前任であったパウル・ダイムラーが開発途上で放棄したレーシングカーの継続開発であり、ポルシェの改良により2,000cc4気筒OHCスーパーチャージャーエンジンは120hp/4500rpmを発揮、このレーシングカーは1924年のタルガ・フローリオで平均速度66.081km/hを記録し優勝した。この勝利はスポーツカー界のみならず学界からも高く評価され、1924年7月4日にシュトゥットガルト工科大学から名誉工学博士を受けた。 また1924年から「メルセデス」、1926年ダイムラーがベンツと合併しダイムラー・ベンツとなった後は「メルセデス・ベンツ」ブランドで高性能乗用車やレーシングカーを多数手がけた。中でも1927年から生産されたスポーツ・モデルのSシリーズは、1928年には「SS」「SSK」という古典的高性能スポーツカーに発展、これらはレースフィールドでも大成功を収めた。 その傍らでポルシェは小型大衆車の開発にも意欲を見せていたが、第一次世界大戦後の不況下で着手は困難であり、更に不況対策のため合併したベンツ系の重役陣からは大反対を受けた。元々頑固な性格のポルシェは経営陣との軋轢も多く、彼らの意向で開発現場から外される見込みになったことから「SS」が世に出た1928年にダイムラー・ベンツを辞職した。
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