セウタの征服と反動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 10:19 UTC 版)
「ムハンマド3世 (ナスル朝)」の記事における「セウタの征服と反動」の解説
ナスル朝はキリスト教勢力と和平を結んでいる状況を活用してジブラルタル海峡の北アフリカ側に位置するセウタへの進出を試みた。イベリア半島と北アフリカの間の往来を制御する海峡の支配権をめぐる争い(英語版)はナスル朝の外交政策における主要な課題であり、この争いはカスティーリャとマリーン朝を巻き込みながら14世紀半ばまで続いた。セウタの住民は1304年にアザフィー家(英語版)の領主を中心としてマリーン朝からの独立を宣言した。ムハンマド3世の義弟でマラガの総督のアブー・サイード・ファラジュ(英語版)を含むナスル朝の工作者がこの反乱を扇動していた。マリーン朝のスルターンのアブー・ヤアクーブは東の隣国であるザイヤーン朝との戦争に集中していたため、この状況に対して強力な対応に出ることができなかった。ナスル朝は1306年5月に艦隊を派遣してセウタを占領し、アザフィー家の指導者をナスル朝へ移してムハンマド3世をセウタの領主であると宣言した。さらにナスル朝の軍隊はマリーン朝の港であるクサル・エッ=セギール、ララーシュ、およびアシラに上陸し、これらの大西洋側の港湾都市を占領した。同じ頃にマリーン朝では反体制派の王子であるウスマーン・ブン・アビー・アル=ウラー(英語版)が反乱を起こし、モロッコ北部の山岳地帯を占領するとともにナスル朝と同盟を結んだ。アブー・ヤアクーブは1307年5月10日に暗殺され、孫のアブー・サービト・アーミル(英語版)(在位:1307年 - 1308年)が後継者となった。ウスマーンは1307年5月か6月に自らをスルターンであると宣言してアブー・サービトに対抗したが、これに対しアブー・サービトは祖父によるトレムセンへの包囲を切り上げ、軍隊を率いてモロッコに帰還した。 その後、アブー・サービトはナスル朝からクサル・エッ=セギールとアシラを奪還し、さらにウスマーンを戦闘で破ってタンジェをウスマーンから奪い返した。ウスマーンはナスル朝への避難を余儀なくされ、そこでアル=グザート・アル=ムジャーヒディーンの司令官となった。アブー・サービトはムハンマド3世にセウタの返還を求める使者を送り、都市への包囲を準備したものの、1308年7月28日にタンジェで死去し、弟のアブー・アッ=ラビー・スライマーン(英語版)(在位:1308年 - 1310年)が後継者となった。アブー・アッ=ラビーはナスル朝との停戦に合意し、セウタはムハンマド3世の支配下に留まった。セウタを征服し、さらにはイベリア半島側のジブラルタルとアルヘシラスも支配下に置いていたことから、ナスル朝は海峡における強力な支配を手に入れることになった。しかしながら、この状況は隣国のマリーン朝とカスティーリャ、さらにはアラゴンをも警戒させ、これらの勢力はナスル朝との連携を見直し始めた。
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