ジャルテ・ウォフラでの勝利とは? わかりやすく解説

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ジャルテ・ウォフラでの勝利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/20 01:27 UTC 版)

アフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジー」の記事における「ジャルテ・ウォフラでの勝利」の解説

シェワ ハラール アムバ・セル ハイクアクスム マッサワ タナ湖 シムブラ・クレ ウォフラ ゼイラ 関連地図国境現在のものエチオピアポルトガル助力求め1541年2月10日になってようやくマッサワ到着した。すでにエチオピア皇帝はガローデオス(英語版)に代わっていた。ポルトガル軍率いるのはクリストヴァン・ダ・ガマ(英語版)であり、戦力マスケット銃兵士400名と事務員であった両軍により1542年4月1日アクスム近郊でジャルテの戦い英語版が行われた。ジャルテは、今日のアナサのあたりと考えられている。ポルトガル側の記録にこの戦闘でのアフマド描写残っており、「ゼイラの王(アフマド)は偵察のため、馬で数フィートの丘を登った。彼は騎馬300従えていた。大きな3本もあり、2本は白地赤い月、1本は赤地に白い月であった」と記されている。 両軍交渉などしながら数日にらみ合ったが、4月4日ポルトガル軍歩兵方陣英語版)を組みマスケット銃大砲アフマド兵を退けながら進軍した銃撃が偶然アフマドの足に当たり、それを機会アフマド退却命じた。エチオピア・ポルトガル両軍追撃行い混乱するムスリム軍を打ち破った。しかしアフマド軍は遠方川を渡ると体勢を纏めなおし、全軍崩壊免れた数日経ってアフマド軍に援軍加わったポルトガル軍はこの状況受けて直ち行動開始し4月16日、再び歩兵方陣で軍を進めた戦闘2週間足らず行われアフマド軍の馬に多少損害与えたものの、今度ポルトガル軍敗北したポルトガル側の記録には「敵は戦いに完全勝利し、我々は敵の騎馬100ほどを討ち取ったけだった。敵は軍令をよく聞き逃亡しなかった」と書かれているポルトガル軍エリトリア地方の王バール・ニーガス・イシャク(英語版)の援軍合流して南方向かい10日後、アフマド軍と対峙した。しかし雨季となったため、しばらく睨み合い続いたポルトガル軍エチオピア皇后サブラ・ウェンゲルの助言従いアクスム南方のアシェンジェ湖(英語版)畔のウォフラ(英語版)に宿営した一方アフマド軍はゾビル山に宿営したアフマドは銃の多寡勝敗決めると考えオスマン帝国助力頼んでマスケット銃士2000大砲、他900名を送ってもらった一方ポルトガル軍は、これまでの戦闘部署振り分け都合などで、マスケット銃士300にまで減っていた。雨季が終わると、アフマドポルトガル宿営地攻撃をかけ、その大半殺し、140名を捕虜とした。司令官のクリストヴァン・ダ・ガマもまた部下10と共に捕まりイスラームへの改宗拒否して処刑された。

※この「ジャルテ・ウォフラでの勝利」の解説は、「アフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジー」の解説の一部です。
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