ジャルテ・ウォフラでの勝利
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「アフマド・イブン・イブリヒム・アル=ガジー」の記事における「ジャルテ・ウォフラでの勝利」の解説
シェワ ハラール アムバ・セル ハイク湖 アクスム マッサワ タナ湖 シムブラ・クレ ウォフラ ゼイラ 関連地図(国境は現在のもの) エチオピアはポルトガルに助力を求め、1541年2月10日になってようやくマッサワに到着した。すでにエチオピア皇帝はガローデオス(英語版)に代わっていた。ポルトガル軍を率いるのはクリストヴァン・ダ・ガマ(英語版)であり、戦力はマスケット銃兵士400名と事務員であった。両軍により1542年4月1日、アクスム近郊でジャルテの戦い(英語版)が行われた。ジャルテは、今日のアナサのあたりと考えられている。ポルトガル側の記録にこの戦闘でのアフマドの描写が残っており、「ゼイラの王(アフマド)は偵察のため、馬で数フィートの丘を登った。彼は騎馬300を従えていた。大きな旗3本もあり、2本は白地に赤い月、1本は赤地に白い月であった」と記されている。 両軍は交渉などしながら数日にらみ合ったが、4月4日、ポルトガル軍は歩兵方陣(英語版)を組み、マスケット銃と大砲でアフマド兵を退けながら進軍した。銃撃が偶然アフマドの足に当たり、それを機会にアフマドは退却を命じた。エチオピア・ポルトガル両軍は追撃を行い、混乱するムスリム軍を打ち破った。しかしアフマド軍は遠方の川を渡ると体勢を纏めなおし、全軍崩壊は免れた。 数日経って、アフマド軍に援軍が加わった。ポルトガル軍はこの状況を受けて直ちに行動を開始し、4月16日、再び歩兵方陣で軍を進めた。戦闘は2週間足らず行われ、アフマド軍の馬に多少の損害を与えたものの、今度はポルトガル軍が敗北した。ポルトガル側の記録には「敵は戦いに完全勝利し、我々は敵の騎馬100ほどを討ち取っただけだった。敵は軍令をよく聞き、逃亡しなかった」と書かれている。 ポルトガル軍はエリトリア地方の王バール・ニーガス・イシャク(英語版)の援軍と合流して南方に向かい、10日後、アフマド軍と対峙した。しかし雨季となったため、しばらく睨み合いが続いた。ポルトガル軍はエチオピア皇后サブラ・ウェンゲルの助言に従い、アクスム南方のアシェンジェ湖(英語版)畔のウォフラ(英語版)に宿営した。一方、アフマド軍はゾビル山に宿営した。 アフマドは銃の多寡が勝敗を決めると考え、オスマン帝国に助力を頼んでマスケット銃士2000、大砲、他900名を送ってもらった。一方、ポルトガル軍は、これまでの戦闘や部署振り分けの都合などで、マスケット銃士は300にまで減っていた。雨季が終わると、アフマドはポルトガルの宿営地に攻撃をかけ、その大半を殺し、140名を捕虜とした。司令官のクリストヴァン・ダ・ガマもまた部下10名と共に捕まり、イスラームへの改宗を拒否して処刑された。
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