ジェズアルドに戻って、そして晩年
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「カルロ・ジェズアルド」の記事における「ジェズアルドに戻って、そして晩年」の解説
1595年にフェラーラからジェズアルド城に戻った後、ジェズアルドはフェラーラに存在したのと同じような環境作りにとりかかり、一連の常勤音楽家や、自作を歌ってくれる名歌手を取り揃えた。自分の屋敷が音楽活動の中心地になったものの、ジェズアルドにはそれは孤独でしかなかった。かなりの財源があったればこそ、自分の道楽のために歌手や演奏家を雇い入れることもできたのだが、ジェズアルドは生まれついての孤独の人であり、彼の邸がエステ家のフェラーラ宮廷のように一大文化の中心地となるには至らなかったのである。1599年頃から没年の1613年まで、ジェズアルドはめったに居城を離れず、音楽のみに情熱を傾け続けた。彼の最も有名な作品は1603年と1611年に出版されている。おそろしく半音階的なことと演奏困難なことで名うての作品のほとんどが、みな孤独の時期に作曲されている。 ジェズアルドと新妻との関係も良好ではなかった。妻レオノーラはジェズアルドの虐待を告発し、エステ家は彼女を離婚させようと努力した。彼女はジェズアルドの孤独の城から、だんだんと離れて暮らすようになり、実家の兄弟とモデナに滞在すると、ジェズアルドはしばしば怒りの手紙を同地に送りつけている。 1600年に、再婚によってもうけた息子が早世した。その後にジェズアルドは、地元のカプチン会教会のための大作絵画の制作を委嘱した。その中でジェズアルドは、天使たちの集える下で、叔父カルロ・ボロメオ、妻レオノーラ、死んだ子とともに描かれている。 後半生においてジェズアルドはうつ病にさいなまれた。それが殺人に対する罪の意識にかかわっていたのかどうかを証明することは困難であるが、それをほのめかす証拠はある。カンパネッラが1635年にリヨンで記したところによると、かつてジェズアルドは日々使用人に鞭打たれており、彼を鞭打たせるための特別の使用人を雇っていたという。彼は叔父の遺骨を入手するべく、ボロメオ枢機卿と執拗で無益な書簡を交わした。後年の詩篇第51番による《ミゼレーレ》は、嘆願するかのように単旋律聖歌と低音声部による半音階的ポリフォニーの交代を執拗に繰り返す異色の作品となっている。ジェズアルドは、最初の結婚で得た長男エマヌエレの死から3週間後に、ジェズアルド城で亡くなった。
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