シンボリルドルフを管理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 22:03 UTC 版)
1983年から、シンボリルドルフを管理することになる。調教にまたがった野平はデビュー前からその非凡な素質を見抜いていた。1984年、岡部幸雄騎手や藤沢和雄調教助手らとともに綿密な調教プランを立て、シンボリルドルフを史上4頭目の三冠馬に育てる。それ以外に1984年から1985年にかけて有馬記念2勝、天皇賞(春)、ジャパンカップを制し7冠という偉業を達成した。野平は同馬に対し絶対的な信頼をしており、天皇賞・秋の出走時に「競馬には絶対はないがシンボリルドルフには絶対がある」と発言した。シンボリルドルフの活躍により、1984年・1985年の重賞獲得調教師賞を受賞している。 1985年、宝塚記念を前にシンボリルドルフの体調をめぐり、それまでの経験から体調不良と判断した野平と「問題ない」とするシンボリ牧場場長の桐澤の見解が対立。このときは和田が折れてルドルフは宝塚記念に出走しないこととなった(実際には出走取消扱いとなっている)。 翌1986年、国外遠征を控えたルドルフの体調をめぐってふたたび野平と桐澤が対立。さらに遠征の日程をめぐって野平と和田の意見が対立したことから和田と絶縁状態に陥る。関係の断絶は和田が死去(1994年)するまでついに解消されることはなかった。結局シンボリルドルフはアメリカのサンルイレイステークスに出走し6着と敗北、その後引退した。 1997年9月21日、セントライト記念をシャコ―テスコで勝利。これが最後の管理馬の重賞制覇となった。2000年2月29日、定年により調教師を引退。通算成績402勝、重賞級23勝だった。翌2001年8月6日に肺炎のため死去。 2004年、JRA発足50周年を期に顕彰され、調教師・騎手顕彰者として殿堂入り(騎手部門)を果たした。
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