シンガポール島攻略作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 15:14 UTC 版)
「マレー作戦」の記事における「シンガポール島攻略作戦」の解説
詳細は「シンガポールの戦い」を参照 1942年1月31日、第25軍司令部はクルアンの戦闘司令所に第五師団、第十八師団、近衛師団の参謀らを集めてシンガポール島の攻撃準備に関する軍命令を下した。命令に従い、第五師団、第十八師団、近衛師団、軍砲兵隊は準備を行った。2月4日、第25軍は戦闘司令所をスクダイに前進させ、6日各兵団長、独立部隊長を集めて攻撃命令を下し、軍司令官が訓辞を行った。第三飛行集団はシンガポール作戦と南部スマトラ作戦(2月10日攻撃開始予定)の準備を同時に進め、シンガポール島攻撃開始は7日夜とした。 2月4日朝、軍砲兵隊は射撃準備を終え、以後逐次射撃を開始し、シンガポール島に対する攻撃は軍砲兵の攻撃準備射撃で始まった。8日、軍主力の渡航開始。10日夜、連合軍の主陣地と予想されていたパンジャン付近の要線は大きな抵抗もなく予想外にたやすく攻略できた。11日朝、第25軍司令官は英軍司令官に対し降伏勧告文を通信筒で飛行機から投下させた。英軍の抵抗はシンガポール市街の周辺でにわかに強化され、日本の弾薬は欠乏したが、15日午後、英軍は降伏した。英軍司令官パーシヴァル中将は降伏の原因は断水にあると語っている。14日に砲撃、空襲で送水管、水道管が破裂し、15日給水状況は逼迫し、専門家が今後一昼夜の給水しかできないと判断したという。 2月15日午後10時、停戦となり、シンガポールの攻略作戦は終了した。 第25軍の発表では、2月末日までに判明したシンガポール攻略作戦間の戦果と損害は、捕虜が約10万人、日本の戦死1713名、戦傷3378名。イギリス軍は約5,000名が戦死し、同数が戦傷した。 1942年5月18日、南方軍は南方軍第三期作戦を終了した。英領マレー方面の第三期作戦では要域の安定確保を定めていた。
※この「シンガポール島攻略作戦」の解説は、「マレー作戦」の解説の一部です。
「シンガポール島攻略作戦」を含む「マレー作戦」の記事については、「マレー作戦」の概要を参照ください。
- シンガポール島攻略作戦のページへのリンク