シュラクサイ戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/07 13:31 UTC 版)
ティモレオンのシュラクサイ戦における功績は、プルタルコスとシケリアのディオドロスの著作によって記録されているが、書かれている内容は一致していない。以下の記述は、ディオドロスによるものである。 ヒケタスは自らの領地アドラノンに5000人の軍隊を派遣した。対するティモレオンは、1000人にも満たない軍隊でアドラノンに行進していた。ティモレオンはアドラノンに到着するや否や、夕食中の敵軍に奇襲攻撃を決行し、300人以上の兵士を殺害し、約600人の兵士を捕虜にした。その直後にシュラクサイに急いで行進し、今度は本拠に奇襲を仕掛けた。その結果、シュラクサイの一部地域を奪取することに成功した。しかし、ヒケタスは未だにシュラクサイの一部を領有しており、降参することはしなかった。 シュラクサイはディオニュシオス2世の支配領域(オルテュギア(イタリア語版))、ヒケタスの支配領域(ネオポリスやその隣接地域など)、そしてティモレオンの奪い取った領域(その他の地域)と、三分割された。ヒケタスと同盟を結んでいたカルタゴは、シチリアの港に150隻の三段櫂戦で押し寄せ、約5万の兵士を上陸させた。ティモレオンはタウロメニオンからの援軍と、コリントスからの援軍によって軍隊を増強した。カタニアの僭主もティモレオンの味方となった。 紀元前343/342年、ティモレオンはオルテュギアに籠もっていたディオニュシオス2世を説得し、安全にコリントスまで亡命することを条件に降伏させた。何らかの理由(ヒケタスに裏切られることへの恐怖から。ギリシア人はカルタゴ人のことをバルバロイとして忌み嫌っていたため、裏切られると思ったのだろう)によってカルタゴ軍は撤退し、孤立したヒケタスはティモレオンに対抗することはできず、降伏した。こうして、ティモレオンはシュラクサイ全体を制圧することができた。 シュラクサイの全権を手に入れたティモレオンは、その復興に乗り出した。コリントスから移住者を募り、ディオクレスの法を元に民主政を確立した。僭主政の象徴でもあった砦は破壊され、その場には正義に基づく民衆裁判所が建てられた。オリンピアン・ゼウスの神官を招いて長官に任命した。また、カルタゴに支配されている領地を攻め、カルタゴから解放していった。
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